説明してはいけない。

短歌を始める前は写真撮影が趣味だった。その頃、先輩写真家に言われたことは、写真は「説明してはいけない」ということだった。その後、短歌を始めてからも、歌は「説明してはいけない」と言われ続けてきた。写真も短歌も説明してはいけない、「そうか、説明してはいけないんだ」しかし、「説明する」とはどういうことなのか、理解できないまま写真や短歌を続けてきた。最近、おぼろげに分かってきたように思うので、理解の範囲内で「説明する」ということについて書いておきたい。
その前に、韻文と散文について少し触れておく。
私たちが詠んでいる(読んでいる)詩歌は韻文であり、韻文の対義語は散文である。大まかに言えば、詩、短歌、俳句で韻文であり、散文とは詩歌以外の文章のことを指す。韻文と散文の違いはなんだろう。
散文は、小説・随想・評論・日記・手紙などなどがそれにあたり、また日常のパロール(話し言葉)やエクリチュール(書き言葉)は散文が用いられる。ここで、社会生活においてコミュニケーションを円滑にするため、情報を分かりやすく、もれなく相手につたえるために「5W1H」がある。すなわち、いつ(When)、どこで(Where)、だれが(Who)、なにを(What)、なぜ(Why)、どのように(How)という6つの事項を簡潔にまとめて相手に伝えるという手法である。即ち、5W1Hの話し言葉や書き言葉により、相手と情報を共有することが出来る。
一方、短歌や俳句などの定型詩のうち、短歌は5/7/5/7/7の31文字、俳句は5/7/5の17文字からなり、短歌や俳句を含めた詩歌は一定の韻律(リズム)がある。また、詩歌は省略の文学であると言われるが、韻文は日用の言葉を解体し、省略し、または削除して文学表現の言葉、詩の言葉へと変換している。
いわゆるよい詩歌とは、往々にして言葉と言葉や文節と文節の間に適当な距離または隙間がある。読者は作品を読む際、無意識のうちにその隙間へと自分の言葉を埋めることにより、作者の心情を探ろうとしている。そして、作者の心情を自身の心情と重ね合わせることにより、自己回帰してゆくのである。
しかし、詩歌を5W1Hで語ってしまったらどうだろう。言葉と言葉の間が隙間なく述べられた詩歌は相手に伝わりやすいがために、ともすると「説明的」になりがちで、作者の心情もそのままストレートに伝わってしまう。したがって、作品のなかに込められた作者の心情を探ろうとする、いわゆる読みの楽しみが薄れてしまう。
私たちは日常生活のなかで散文を用いているため、韻文を読む際には、意識してその「読み」のスイッチの切り替えをしないと「韻文は理解できない、分からない」という印象を持ってしまうのである。

歯にあたるペコちゃんキャンディーからころとピアノの上でしようじゃないか/加藤治郎
手をひいて登る階段なかばにて抱(いだ)き上げたり夏雲の下/加藤治郎

一首め、何をピアノの上でするのか、二首目、何を抱き上げたのかが省略されている。おそらく作者は意図的に欠落させることで、「何を」を読者が想像することを喚起し、「何を」を読者が埋めることで歌が完成する。私は、一首目は「セックス」、二首目は「子供」だと想像しました。

そうですかきれいでしたかわたくしは小鳥を売ってくらしています/東直子

このうたの場合、何が綺麗なのかの特定が難し、というか読者が自由に想像することがでできる。いわゆる、読みに正解がないとも言える。

そうですか(あの夏の海岸は)きれいでしたかわたくしは小鳥を売ってくらしています
そうですか(あの頃のあなたは)きれいでしたかわたくしは小鳥を売ってくらしています

どちらにしても、現在は綺麗でない、読者は過去の綺麗だったものを想起します。読者はこの欠落した部分に自分の言葉を埋めるため、詩的な思考を開始する。言葉と言葉の間に距離があって、読者はそこをシャンプすることによって歌を鑑賞することになる。

すこし具体的な作歌のことを話します。
例えば、「今年の夏、実家近くで私は一度行きたかったひまわり畑の迷路を歩いた」という文章があるとします。この場合、いつ(When)=今年の夏、どこで(Where)=実家近く、だれが(Who)=私、なにを(What)=ひまわり畑の迷路を、なぜ(Why)=一度行きたかった、どのように(How)=歩いた となります。
しかし韻文の場合、いつ(When)、どこで(Where)、だれが(Who)、なぜ(Why)などは省略されることが多く、なにを(What)、どのように(How)という事実だけが記載されることがあります。すなわち「ひまわり畑の迷路を歩いた」という文書だけが残ることになります。すると、だれが(Who)=一般的には私です。いつ(When)は「ひまわり畑の迷路」から夏であることが想像されます。どこで(Where)は「ひまわり畑の迷路」のある場所ですから都会ではないことが想像されます。そうやって読者は、残されている言葉から、書かれていない言葉(足りない言葉)を補足するという作業を知らず知らずに行っているのです。
ここで、「ひまわり畑の迷路を歩いた」って言う文章が、詩的な表現に感じませんか。そう、8/8で短歌の下句がすでに完成しています。適当な上句を追加すれば、短歌が完成しそうな気がしませんか。ここで、注意することは上句と下句との間に適当な距離をもたせるということです。例えば、

夏休みに君と訪ねたふるさとのひまわり畑の迷路を歩いた

としたら、どうでしょう。夏とひまわりのイメージが重複します。また散文調であり説明的な歌になってしまいました。
ここで、私は「迷路」という言葉から「ジグソーパズル」を連想しました。しかも、1ピースがどこかになくなってしまって、いつまでも完成しないパズルです。そこで、

一片(ワンピース)をどこかになくし埋められずひまわり畑の迷路を歩く

と改作すれば、そこそこ短歌らしい詩的表現になるのではないでしょうか?

以下、参考書籍を紹介しておきます。詩歌を詠む上でのヒントがあるのではないでしょうか。永田和宏氏は塔の歌人であり、カニエ・ナハ氏は詩人、村社祐太朗氏は演劇作家です。

「私の前衛短歌」永田和宏著、砂子屋書房 から引用
歌会用語に(説明的)というのがある。(中略)一首のなかに飛躍がないと歌はつまらない。その飛躍が、跳びすぎていると読者の理解が及ばず、即きすぎていると面白くない。その跳びかたのいわば匙加減が、歌のむずかしさであり、また面白さでもある。失敗作を見ていると、跳びすぎて読者の共感が得られないというものよりは、わかりすぎてつまらないという作品の方が圧倒的に多いという気がする。説明的語句の挿入が跳躍の溝を埋めて落差を小さくしているのである。説明しないと、自分のこの心の動きは読者にわかってもらえないのではないかという危懼が、その大きな要因であることはいうまでもない。歌は盛り込む形式である以上に、削り取る形式である。(中略)削り取ることは言うほどに簡単ではない。

活躍する語のために(カニエ・ナハ 、村社祐太朗/現代詩手帖2018.11から引用)
カニエ:詩の書き手って、覚悟を持って改行していて、どのくらい行と行を離すかを意識して、そこに余白をつくっている。ただ、その行と行の間をつくりすぎてしまうと読む人がジャンプできなくなるし、その、読み手がジャンプできるかどうか、ぎりぎりのところで余白をつくるといった方法論でやっている人は少なからずいると思う。それが、うまくいっていないと、つまづきになってしまうということですよね。
村社:ただ一方、沢山の詩を読んだあとに柴田聡子さんの詩集を読むと、歌詞の空白は共有できると思いました。行と行は離れているんだけれど、こちらでその行を埋めることができる。
村社:詩人の改行の空白は、個人的過ぎるというか、何に要請されて生じているのかよくわからない。私が書くものは基本的には一人語りなので、一人称の小説と文体としては似てしまう。そのときに私の書くものも説明が足りない、空白があいている、文と文の間で説明不足だと言われますが、私の空白は、詩を切り詰めた結果生まれてしまう空白なんです。語を活躍するようにすると、確かに前と後ろを繋ぐために役に立っていたかもしれない、それだけのために意味と関係なく動員されていた語は振り落とされる。その結果、あいているように見える。
村社:どいうやっても像を結ばないということが、読んでいくうちに細かく細かくストレスになっていきますね。
カニエ:詩の書き手は、あえて像を結ばないようにしたりしますね。そうすることで繰り返し読ませたい、わからないことで引力をつくりたい。それが読む人を拒否してしまっているということはあると思います。ただ、単純に入ってきてしまう言葉だったら、すでにどこかで書かれているから、違う書き方をしなければいけない。

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