辻聡之「あしたの孵化」

紫はみえないというきみの虹   屈折率の違いを生きる P.18

虹色は、赤から紫まで七色(赤、オレンジ、黄色、緑、水色、青、紫)とされるが、実際そこには無限の色から成っている。紫はその辺縁部あたりに位置している。「紫はみえないというきみ」に対して、作中主体は見えているんだろうか、同じ虹を見ているが、やっぱり作者にも見えていないという確信がある。虹の紫は同じように見えなかったけれど、日常におけるお互いの相違、それが屈折率の違いであろう。日常の事象が、人というフィルターを介することによって、その事象はその人の心地よい(あるいは悪い)ほうへと屈折する。日常とはそういうものだ。違いを受け入れてきみと生きているし、生きたいと誰もが思う。辻さんの歌には強い主張はほとんどない。そういって諦念もない。日常を上手にしならせながら等身大に生きているのが歌から伺える。

うまく生きるとは何だろう突風に揉まるる蝶の確かさ P.33

ほんの少し、辻さんを存じているわたしから見て、この歌がすごく辻さんらしさを歌っているように思うのである。彼は外観もふつうのごく普通の青年であり、良くも悪くも決して目立つ風貌ではない。その風貌からは、社会では敵は少ないだろうなぁと直感させるのである。しかし、蝶は強者でなく弱者であるがために、突風の隙間をうまくすり抜けるしかない。

野菜ジュース満ちて光れる朝々を渡れネクタイを白き帆として P.34

清々しい歌である。コーヒーでも牛乳でもない野菜ジュースに健康的な朝の光が似合う。そして、ネクタイを帆として一日を始める若い青年像が立ち上がってくる。

以下、一部の好きな歌から
充電が完了するまで雨よ降れ窓はしずかに開かれていよ P.20
誰もみなひとりに戻る鍵を持つ油絵の月溶けだす夜に P.23
春の日のシーラカンスの展示室だれの言葉も遠く聞こえる P.32

二部の「グッドニュース」から
水と塩こぼして暮らす毎日に水を買いたり祈りのごとく P.48
みな白き家電並びぬ   わたくしは汚れるために生活をする P.48
新しい季節の新しい席に座り新しい背景となる P.49

これらの歌から、四月の新しい季節を連想する。
水をこぼして、また水を買う、人間はなんて非効率的な毎日を送っているのだろう。そのことの気づきがこの歌にはある。
家電量販店に並ぶ白色の家電も、購入されていずれは汚れる運命にある。汚れないまま生きていくことは難しい。生活とはなべてそういうものだ。
定期異動などで新しい席に着くと同時に、わたしはその場の背景となる。そう、主役ではなく、いつだってわたしは脇役であり背景なのである。おそらく家庭でも変わらないのではと感じられる。こういった歌に、日常のなかでのぶれない作者の視線を感じるのである。しかし、これらの歌から作者は汚れること、背景になることを手放しで望んでいないのだという予感もする。受け入れてはいるが、理想を諦めてはいない、作者の心情を仄かに感じることができる。

歌集の最後の歌
梅の枝をメジロきらきら飛びうつる   みなひとりぶんの重さに撓む P.158
ひとり分の重さを保ちながら、枝から枝へ、今日から明日へジャンプしてゆく作者がみえる。きっと明日も明後日も等身大の重さを保っているだろう。辻さんは、ずっとその重さのまま生きていくのだという確信がある。軽量なようで、、、軽量でない重さで、、、、。
#短歌

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