辻聡之「あしたの孵化」(II)

三月尽   デスクにだれか残したるクリップゆるくひらきておりぬ   P.91

この歌を読んで、解説することはナンセンスでしかない。
三月末、ゆるく開いたクリップが読む人に語りかけてくる。その言葉を素直に聞けば良いのである。それは自らの言葉でもある。やんわりと心に沁みてくる歌だ。

手に掬う海さえも海ちりぢりの言葉のひとつひとつにあなた  P.100

手に掬った海と散り散りの言葉が呼応している。どんな所作もどんな言葉も、今はあなたの成分が僅かに溶解している。

ゆきすぎる海岸線を見るために、今、やわらかく捩られた首   P.103

「ゆきすぎる海岸線」、「捩られた首 」など詩的な言葉が心に届く。そうか、海岸線は向こうの方へ伸びてゆくのではなく、ゆきすぎてしまったんだ。振り向いただけなのに、こんなにも叙情のある歌になっている。

セックスというより肉体関係というべき夜を分け合っていた   P.109

セックスと肉体関係の違いは何だろう?わたしのなかでは「肉体関係」には相互の愛情があまり感じられないが、どうだろうか。からだだけを求め合うが、唯一夜を分け合うことで救われている。

ここにいたことを覚えておくための人は背景ばかりを撮って   P.120

記念写真には、撮影者が写し撮りたかった被写体以外に、そうでないものも写っていることが多々ある。いわゆる背景である。作者はその背景ばかりを撮っている、というかおそらく背景にばかり目がいくのだろう。それは、そこにいたことを覚えておくためだと詠う。あなたといたことよりも、そこにいたことのほうが重要なのである。あなたは変わってしまうかもしれないが、ここという場所は逃げていかない。だからわたしはここにいる、いたことに自分の確かさがある。

昆虫を詠った歌によい歌を見つけた

やがて孵るものはおそろし花冷えの窓より放るかまきりの卵    P.127
どこへも行けないなら同じだろう薄闇にハエトリグモを覆うてのひら   P.131
手に負えないもののメタファーとしてかまきりの卵を連想した。
卵はやがて孵化して沢山の成虫へと育つ。ハエトリグモをそっと手のひらで覆ってみせる。ハエトリグモは自分自身のメタファーであろう。放棄したり一時的に動けなくしたりするが、それらの行為は根本的な改善策ではない。これらの所作のなかに、どうしようもなく自分自身では操縦不可能な生への躊躇がある。

つよいことばよわいことばがたたかってかったほうからあなたにとどく   P.144
凍結のオコタンペ湖を見しのちをあなたのずっと遠い来歴   P.148

ことばに強さも弱さもないはずなのに、強い言葉だからって届くはずもないのに、でも乾いたことばで詠う。オコタンペ湖に来てまでも、あなたへの想いが未だに燻っている。「遠い来歴」にまで想いを馳せる作者がかなしい。しかし、人を好きになったことのある読者ならば誰もが共感する歌である。
#短歌  

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