「みずからの火」を読む

作者にとって、第二歌集から四年目になる歌集である。
帯に「緊密で美しいことばたち」とある。ハードカバーであるが歌集のサイズがコンパクトである。鮮やかな赤色の装丁がシンプルで目を惹く。また、歌集を開くと、一ページに一首という贅沢なレイアウトになっている。

あとがきに
「ここ数年、現代詩をよく読んだ。いくつかの試みもした。上手くいったもの、そうでないもの。そもそも上手くいくという事はどういうことか、縁あって関わっているこの詩型について多くの示唆を得た。」とある。

歌集から目に留まった歌を読んでみる。

「菜の花、桜、死」から

黄の花を穢しつづける宵闇に不在を誇るごとく家立つ(10)
無遠慮な目線をあまた纏(まと)わせて丈たかい茎ゆらす花々(11)
花冠という黄の断面を晒しつつ痛ましきかな露を纏って(12)
( )内はページ
「穢しつつ」「無遠慮な目線」「痛ましきかな」などに作中主体の心情が読める。その言葉によって、無機質な花園の風景が一変する。また、余分な風景や事象を入れないことによって、春の花の景や不在の家の輪郭が際立ってくる。心情と写生の量的、数的、物理的なバランスとシンプルさの巧みな歌である。

誰の死を知らせて桜しらしらと温い夜風に膚をうごかす(16)
死を知らせるのは桜である。夜桜の下で、人の死を実感している。消失する死と再生する花との共存、対比が怪しいリアリティを帯びてくる。ここでは、「肌」でなく「膚」であるほうが身体的リアリティがある。「膚」は誰のあるいは何の膚であろうか。桜の膚であり、それは作中主体の膚でもある。膚はうごくものであろうか?死の知らせを受け、温い夜だからこそ、非日常的な夜、誰かの死んだ夜だからこそ、膚はうごくのかもしれない。

「チョコレート」から

不安定な温い血のなかちょこれいと暗くつやめく小雨の夜に(20)
食したチョコレートが身体のなかへ吸収されて血流のなかでつやめいている。それはおそらく肌寒い小雨の夜だからであろう。温い血とチョコレイトの温みとが溶けて混ざり合う。チョコレートではなく「ちょこれいと」とひらが表記したことが効果的であり、読むときに若干速度が落ちる。溶けている感はひらがな表記の方がある。

水映すテレビの光あおあおとシーツの上でまたたいている(21)
映像が浮かんでくる歌である。真っ暗な部屋の中で、ベッドのそばにあるテレビの光がシーツを照らしている。その光の揺れがシーツの上でまたたく。しかし、読者はその歌われない部分、歌からは見えてこない周囲の情景を想像するのである。そこに、性愛のあとの静かな時間を想起するのである。

めくる朝光る岸辺にうち上がる 屍(しかばね)だろう甘みを帯びて(22)
この歌は、前ページの歌との関連で読みたいと思う。
岸辺に打ちあげられた屍はなんであろうか?私はこれを魚ではなく、哺乳類の屍であると想像した。イルカや鯨や、そういった海に生きる哺乳動物を連想した。なぜここで魚を想像しなかったのか、それは前の歌との関連で読んだからである。前の歌、そこには性愛のあとの男女の体がある。そして明けゆく朝には、昨夜の屍がある。それは魚でななく哺乳動物のそれであり、私とあなたのそれである。そして「甘みを帯びて」が妙に納得されるのではないだろうか。

「火の体系、黒い水面」から

夕暮れに黒く粗末な火事あって身をもつ人らうごめいている(46)
「黒く粗末な火事」という言葉に惹かれる。火事をこのように捉えた歌人はおそらく少ないのではなかろうか。「粗末な火事」とはどういう火事であろうか、逆に「粗末でない火事」とは、と、ここで立ち止まる。粗末=小規模ではない。粗末でない火事とは、最初から最後まで綺麗に完璧に燃えてしまった火事を想像するのである。あるいは放火による火事を想像する。反対に、粗末な火事とは、うっかりミスで燃えたボヤのような火事を想像する。だから、身をもつ人(からだ一つの、おそらく家族のある人)、被害者でない人、見物人が火の灯りのなかでうごめく情景が浮かぶ。見学者である作中主体も身をもつ人であり、ささやかな生活が燃えている痛みのようなものがここにはある。そして、見学者はやがて火事場から立ち去ってしまうのだろう。火事という事件によってうごめく身をもつ人らの集団が、やがてばらばらになって立ち去っていく、時間的な経過への痛みがここにはある。

きららかに波濤は崩れ無数の蛇。拒絶しながら手を差し伸べる(48)
薄らかな被膜さわだちやまぬ夜 雲閉じ込めた脚が苦しい(49)
自らを赦す行為がすすむたび霧深くなる 血球は散る(50)

これらの歌に現代詩の影響を強く感じる。
波濤と無数の蛇、被膜や雲とじこめた脚、霧と血球、これらの言葉から言葉への展開は詩的直観だろう。

波濤を蛇と見た。それらは相互に拒絶しながらも手を差し伸べている。互いに結びつくこと、つながることへ仄かに躊躇する作中主体の心情を思う。
「薄らかな〜」を性愛の歌と読むのは無理があるだろうか?被膜は女性性器、雲は何かのメタファーであろう。
霧から血球への展開をどのようにイメージするのかは難しい。理由は不明だが、ここでは赦すことはおそらく喪失であり、霧は深まり、自らの裡に流れる血球が散ってしまうことなのだと想像する。

「冬の光」から

きらきらと魚卵こぼれる 君といて眠ったように話すいつでも(64)
二句切れで、二句以前と以後のつながりは薄い。「きらきらと魚卵こぼれる」美しい光景である。放卵する雌魚を連想する。魚卵がパールのような虹色を連想させる。そして、以後は相聞歌となる。「眠ったように話す」君の言葉が水中に沈んでゆく魚卵のスピードと重なる。アンニュイな時間が過ぎてゆく。あるいは言葉がきらきらと溢れるのだろうか。午後の明るい部屋をイメージする。そこで交わされる二人の関係を想像するのだが、同棲のような不安定な関係であろう。それは「魚卵こぼれる」や「眠ったように話す」から連想される。

いずこかに損ねた部位を持ちながら人ら集まる呼気を温めて(66)

誰もみな、どこかに損ねた部位、欠損した体の部位を持っていると詠われると妙に納得してしまう。それは慢性的な体のある部分の痛みだけではなく、むしろ心的な欠損であろう。そういった心を病む人たちが集まって呼気を温めている。人間の生物学的な弱さがある。

「水脈」から

町川の昏い流れに梅の枝は薄くれないの侮蔑を飾る(83)
池に降る三月の雨、穏やかな水紋としてかつていた人(84)

梅の花を、侮蔑(ぶべつ)と見ている。梅の季節の侮蔑とは何だろう。定期異動の、希望していた部署と異なる場所への内示を想像する。  

「水紋としていた人」に穏やかに去っていった人を思う。三月の頃はだんだん春めいてくる。その頃の雨は少し温みを含み、かつて去っていった、あるいはいなくなった人を想うこころがある。水紋がいくつもいくつも現れては消えてゆくさまに、かつていた人を重ねる。美しい歌である。

「やわらかな指」から

うつしみのやわらかな指からめつつ女男(めお)はもの憂い夜のほどけめ(111)
「女男(めお)はもの憂い夜のほどけめ」が美麗である。「夜のほどけめ」はメタファーであり「指からめつつ」との対比とも考えられる。また、「ほどけめ」は心と体のほどけめとも読める。「もの憂い」に男女の関係が想像される。

冬の陽をかえす水面のきららかな肌に不在の人々の熱(114)
水面のさざ波の光を肌とみたて、それを不在の人々の熱と詠む。「不在の人々」を拉致された人々と読むのは深読みだろうか。北朝鮮に拉致されてもう三十年以上が経過する。拉致された人の消息を水面の熱と受け止め、生存を深く祈るばかりである。

「市営アパート」から

きららかな尾を長くひき落ちてゆく構造物の強い引力(130)
高層ビルの破壊の映像を想像した。「尾を長くひく」に次々に階が下の階を追うように崩れていく映像を重ねた。それを「構造物の強い引力」と詠ったところに新しい表現を感じた。そうだ、構造物にもそのかたちを最後まで保とうとする引力があることを作者はしっかりと見つめている。

身熱(しんねつ)を宿した湖に沈んでる骨のカーブを鎖しゆくちから(131)
身体を作者から少し引き離して歌う。「身熱を宿した湖」(この場合は「湖」は「うみ」と読むのだろう)という喩で表現された身体のなかの、カーブする骨は肋骨だろう。骨を閉じ込めておく「ちから」に身体の発見がある。メタファーを上手く使った歌である。

薄明の太い銀河に身を浸す世界にひっかき傷つけあって(133)
二人でこの世界に生きていくということ、それは太い銀河=大きな流れのなかに二人で浸るということ、体制に逆らうことを正面きってしない。しかし、ひっかき傷をつけるという、現体制へのささやかな抵抗がある。

「美しい橋」から

髪の毛に触れれば自死の冷ややかさ一夜をかけて燃えている川(186)
ここに歌われているのは自死への躊躇であろうか。「一夜をかけて燃えている川」とは「自死」のメタファーとも読める。自死という言葉から、逆に、今を切ないほどにギリギリで生きている作中主体が浮かび上がる。それは切なくある自身の今の(生)である。燃えている川には入ることができない、また消すこともできない、燃え尽きるまでみつめるしかないのである。自死とはそういう川に似ている。「髪の毛」と「川」にほのかな相似性を感じる。

歌集のなかの、それぞれの歌の背後に感じるのは、作者みずから発せられた火のような言葉である。そして歌集のタイトルにもなっている「みずからの火」である。
それは、大火のように激しく燃える火ではないが、闇の奥でちろちろと、一夜で自らを焼き尽くしてしまうような火である。
歌集のなかのひとつひとつの言葉が美しい。言葉が薄闇のなかひかりはじめる、あるいは言葉が言葉と水のきらめきのように繋がろうとしている。ある時は身体の裡と外界の事象が同じ温みになろうとして呼応している。この歌集の作者はこんなふうに日常の事象を見つめているんだと、改めて思う。そして、現代詩の手法を取り入れた歌の展開や直感に心情が強く現れていると感じた。
洗練された、第三歌集にふさわしい歌集である。

(「みずからの火」嵯峨直樹)

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