「みんな違う人間だ」ってことを、たまに忘れる
人間はみんな違うのだけど
何をはきちがえたのか
「みんな同じ人間だ」と主張する人がいて
だからこそ「自分」がすべての基準になる人がいて
みんなで疲れるね。
「優秀な人は、優秀じゃない人の気持ちなんて分からない」って、中学生の頃に何度も思った。
学校の先生になる人なんてみんな、いつもそれなりに優秀だった人だ。たぶん、地元の公立中学校の上位20%に入るような人だけが、学校の先生になれる。
だけれど、公立の中学校には、頭のいい子ばかりがいるわけじゃない。スポーツが好きな人、音楽が好きな人、なんにも好きじゃない人、普通に命をつなぐことさえままならない人がたくさんいる。
不登校のとき、思った。「ずっと優秀だった先生たちに、私の何が分かるのか?」と思った。先生たちは優しかったけれど、「どうせ分かってないだろ」という気持ちはいつもあった。
数日ぶりに登校したとき、「なな、よく来たな!」と先生に言われた。先生は褒めてくれた。それは分かってる。だけど、「よく来たな!」って、イコール「いつもは来てないよな」って意味じゃん、と思った。そして繊細すぎた私はまた学校に行く気を失った。
そのとき、ずっと学校に行かなかったわけじゃないよ。行ったり休んだりが、たぶん半々くらい。なのに、「いつもはいない人」にされた。悲しい。
学校の先生は、一応専門職だ。忙しくて勉強する時間はあまりとれないかもしれないけれど、多少なりとも研修会等に参加して知識を更新しているはずだ。不登校についても知識があるはずだ。
それは確かなのだけれど、やっぱりその経験がある人とない人では、違うのだ。学校の先生は、不登校の子供をたくさん見てきたかもしれない。だけど、不登校になった経験はない。
私は不登校の子供を全然知らないけれど、不登校になった経験はある。
どっちが偉い訳でもないし、不登校にならなきゃいけないわけじゃないけれど、とにかく人は人のことを分かってあげられないのだ。
それが前提にあるから、人に何かを強制したい気持ちにならない。「この人にこんな人になってほしい」って気持ちもわかない。他人は他人で、私に変えられることはできないし、変える資格もないし、そもそも理解できないのだから、過度に心に踏み込まない。
たまに、自分と他人が「同じ人間」だと思ってしまうときがあって、そういうときはとても害悪な人間になる。幼いころはよくあった。
「どうして私は●●ができるのに、この人はできないんだ????」とか思ってた。
家庭教師先の中学生があまり勉強ができない子で、彼女の気持ちを分かってあげられなくて、悲しかった。家庭教師の募集要項に「勉強ができない子の気持ちがわかる人、募集!」って書いてたけれど、「今は教えられるレベルで勉強ができるけど、勉強ができない子の気持ちが分かりますよ!」なんて人は特殊すぎる。元ヤンが一念発起して勉強でも頑張らない限り、そうはならない。あの会社は何を求めていたのだろう?とか思ってしまう。
よく分からないけど眠いなぁ。
とりあえず、私は他人に何も言えない、言う資格がない、気持ちなんて分かってあげられない、だからとりあえず自分のことを頑張るしかない。それで救われてくれる人がいたらラッキーだけど、きっと、傷つく人もいるね、ごめんね。
(15分で書いた)
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