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文章へのこだわりが強い

「オーソドックスなWebライティングのやり方」を再確認すればするほど、「ありふれたツマラナイ文章だな」「ツマラナイ文章、書きたくないな」「私のこだわりが欲しいな」と思ってしまう。

例えば、ブログ内の写真。

一般的には適宜写真を挟む方が読みやすい。確かにそうだ。だけど私の場合、「読みづらいと感じても読んでくれる人だけが読んでよ」と思ってしまう。

次。

一般的に文末表現(ですます調・だである調)は統一した方がいい。だけど私の場合、1つの文章の中でも独り言っぽい部分と他人を意識した部分が混在しているので、ごちゃ混ぜになることが多々ある。

・意図通りに表現できてるか?

・読み手に伝わってるか?

と聞かれたら、自信が無いのだけど…。

それでも自分の意図は死んでない。文章に生きている。

次。

一般的に「どんなターゲット層向けに書いてるのか」明確にしなければいけない。その通り。でも、そもそも誰かに向けた文章ではなく自分のための文章を書きたいので、「ターゲット」という概念が崩壊している。ターゲット…強いていうなら自分か。

次。

・読みやすい文章

・分かりやすい文章

・伝わりやすい文章

それらは全て、人間の計算だと感じる。計算や意図を感じる文章を私は好きになれない。テクニックとでもいうべきか。

テクニックを使えば誰でも読みやすい文章が書けるけれど、テクニックを使った文章はそもそも文章としての存在価値があるのか疑問に思ってしまう。

テクニックを使い倒した文章は、インスタントラーメンに似てる。誰が作ってもある程度は味が統一される。食べやすいし安心するけど個性はない。それを私が作る必要があるのか?ロボットでいいじゃん…と思ってしまう。

テクニックを無視したり、あえてないがしろにした文章は、素材にこだわった料理に似てる。農家さんにも、調理法にも、料理人にもこだわった料理。人によっては「味がないな」「食べづらいな」「知らない味だな」と思うのだけど、確かに「私じゃなければ作れないもの」。ロボットにはできないので、「あ、私が生きててもいいんだ」と思える。

もちろん

ライティングは「やりたい文章」とは程遠い。真逆とも言える。

だけど無駄ではなくて、真逆だからこそ対極にいる「自分の文章」への感覚が研ぎ澄まされる気もする。

「チャラい人と付き合って初めて気づく、童貞の可愛さ」みたいな。

「海外に行って初めて気づく、日本の良さ」みたいな。

逆っぽいことに挑戦するからこそ自分の大切なものがハッキリする。

決して文章の専門家ではないし、実績もないし、ただの素人だ。なのにこだわりが強いのはおこがましいかもしれない。

それでも

こだわりを捨てる必要はなくて

ゆっくり育てていけばいい。

自分の感覚が好きすぎて

今日も自己愛が甚だしいね。

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