保健室の先生になろっかなぁ
ちょっと悲しい時、頭によぎる。「やっぱり保健室の先生になろっかなぁ」。そう思うと少し冷静になって、ちょっと泣けて、そして妙に落ち着く。
中学の頃から保健室の先生になりたくて、千葉大学の保健室の先生を養成する課程を卒業して、今はなぜかライティングメインにお金を得ている。
ライティングをしてると言っても、ほとんどの時間をボーッと過ごしたり、適当な文章を書いたり、読書してる。かなり少ない時間だけ働いて、あとはボーッとしてる怠惰なライターだ。
「新卒でフリーランスになりました、いえい」って感じじゃなくて、ただ進路が定まらないからフラフラしてる。フリーランスっていう言葉が浸透し始めたから「フリーランスです」と名乗っているけど、もし10年前だったら「フリーターです」とか「既卒で進路模索中です」とか答えてると思う。
それくらい掴みどころのない、あやうい存在だ。
養護教諭になりたいのは、どうしてだったっけ。当時は「養護教諭に助けられたから、自分もそんな存在になりたい」とか言ってた気がする。向き不向きも考えずに、(向いてないであろう)バリバリ母性MAXな職業を目指していたね。
ちょっと経ったら気づいたね。「私は養護教諭に向いてるというか、救われる側の人間として保健室にいただけだ」「救われたからって、自分も救えるとは限らない」とか、思ったね。
そのあとは「学校という狭い世界の中では保健室が好きだったけど、学校以外の広い社会を見たら、別に学校や保健室にこだわらなくていいじゃん」とか。自分がいかに井の中の蛙状態で進路を決めたか、思い知ったね。
養護教諭になりたいってよりも、養護教諭が包括する分野に興味があったのかも。発達障害とか、貧困家庭とか、虐待とか、そんなの。養護教諭の中心は応急手当てとか衛生的ななんちゃらとかだから、少しずれてるかもしれないけど。養護教諭になったら、自分の興味のある分野についてお金をもらいながら学べるのが良かったんだろうな。
たまに思うよ。「養護教諭になろっかなぁ」と。もちろん明らかに向かない部分はたくさんあるし、なってないからこそ憧れみたいにおめでたく考えてる部分もあるんだろうけど。ならないにしても、一回なってからじゃなきゃ心をスッキリさせられないよね。
私が養護教諭に向いてる部分
・例外を受け入れることが自然にできる
・動じない、落ち着いている
・新しいことを学び続ける
・子どもに意外と信用される
・子どもの話を聞ける
・福祉や教育に興味や「やらなきゃ」という気持ちがある
・たぶん一般的な教員っぽい人とは感覚や視点が違う
私が養護教諭に向いていない部分
・早起き、週5日以上勤務、固定給、スケジュール決まってるのが好きじゃない
・副業できないのが嫌
・お便り1枚渡すのに上を通す必要があるのが面倒
・生徒、他の教員、保護者、教育委員会、医者などの「板挟みコミュニケーション」好きじゃない
・やっちゃダメなことが多すぎて人間としていられるか不安
・年功序列、〜会が多い。慣習大事
・ケガにあんまり興味ない
・掃除が超嫌い
ああ、冷静に考えるとやっぱり「極めて向いてない」んだろうな…。あまりにも耐えられない不自由が多いな。子どもとの関わりはまともか上手くできる方だと自負しているけど、板挟みコミュニケーションと、何よりも「早起き、週5日以上勤務、固定給、スケジュール決まってる」のが嫌すぎるな…。
養護教諭がどうこうってより、一般的な組織での労働が無理そうだ。
教員の働き方が大幅に変わったら挑戦するか…。
ないものに憧れてるだけで、やっぱりかなり無理そう。
振り出しに戻る。
養護教諭の本を読んだり、自分なりに考えたりして、別の形で養護教諭みたいな動きをする働き方を模索した方がいいね。絵本作家なり詩人なり、そういう形で養護教諭のメンタル面に類似した働きをする職業を模索しよ。
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