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当事者だから有利ってわけじゃない

私は詩人になりたい。いや、詩人じゃなくてもいい。短歌の人でも、小説の人でも、脚本家でもいい。自分の文章を書いて、表現して、認められたりしたい。「いいね」って言われたりしたい。誰かを救ってみたりしたい。

理由はおそらく、とある作詞家への憧れ。「救われたから、自分もそっち側に行きたい」という単純な動機。

だけど私は知っている。助けられた側の人が、助ける側に向いてるかと言ったら、そうとは限らないことを。

大学時代だってそうだった。私は保健室の先生にお世話になったから、保健室の先生を目指した。「不登校だった私だから、誰よりも保健室の先生に向いてるはずだ」と信じて勉強していた。教室にいる誰よりも「私が保健室の先生だ」と頑なに思っていた。

だけど違った。保健室の先生にはならなかったので断言できないけれど、私よりも保健室の先生に向いてる人、上手くやれる人、子どもの役に立てる人がたくさんいた。私より保健室の先生な人がたくさんいた。

不登校とは無縁そうな明るい子。義務教育時代はとにかく楽しかったと話す子。そんな「保健室とは無縁そうな人」の方が、保健室の先生が上手だった。

諦めたとか自信を無くしたとかってわけじゃない。ただ、「別に当事者じゃなくても支援はできるんだな」「当事者じゃない方が色眼鏡がなくて、フラットに子どもと関われるのかもな」と感じた。

今だって同じだね。

言葉に救われたからと言って、言葉を仕事にすることが向いてるのかは分からない。因果関係は無いんだと思う。

私は言葉に救われただけの受け手。保健室に救われただけの生徒。先生として適性があったわけじゃなくて、保健室に救われる生徒として適性があっただけ。生徒としての適性と先生としての適性には、深い関係は無いんだよ。

それでもやりたいならやればいい、やりたくないなら辞めればいい。そこに適性は関係ない。

何を選んでもいい。だけど、当事者だから有利ってことは無い。謙虚に、穏やかに、普通に、でも自分を信じてやるしかないね。やる?

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