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「あちら側」と「こちら側」のお話。

最近、「あちら側」と「こちら側」についてよく考える。

「あちら側」ってのは作り手、「こちら側」ってのは受け手のことだ。

「あちら側」の人も「こちら側」の視点に立ちなさい、という話は本業のほうでよく聞く。「顧客中心視点」ってやつだ。ログが取れるようになった行動データであったり、SNSでの顧客の声を分析して動きなさい、というトレンドになる。

一方で、「こちら側」だけで完結している世界だってある。独り言の話ではない。ちゃんとお金が回っている。YouTuberがまさにそうだ。こちら側にウケるコンテンツをこちら側内で回していたら、スポンサーもついて収益化できちゃったってやつだ。「こちら側の意見を聞きなさい」とかではなく、そもそも「こちら側」の人がそのまま「あちら側」の人になっちゃったのである。ある種「こちら側」時代の最先端なんだろう。

ただ、情報っていうのは発信者と受信者が基本的にはいるもので、「あちら側」と「こちら側」が発生するわけで。この境目が完全になくなるわけでもない。

その境目がなくならない中でのSNS時代においては、「こちら側」も「あちら側」にフィードバックを送りやすいのが特徴だ。だからこそ両者の間のズレを修正しやすいわけなのだが、そのズレ自体を声高に叫び、大きく拡がって行くことにもつながっている。またTwitterなら140字だとか280字だとかに凝縮させるため、ものすごくわかりやすく、同じ考えの人には共感を促しやすい一方で、そうではない人にとってはタチの悪い刺激物になってしまっている。

満足するものを提供できなかったにせよ、「あちら側」だってプライドを持ってコストをかけて作り上げているわけだ。あんまりにも刺激の強すぎる声が大きすぎると、今度は「そんな理解ができない人は客ではない」と声高に叫ぶようになってきた。そうすると、また「あちら側」寄りの「こちら側」の人(ややこしい)がそれに同調してわかりやすい刺激物となる声を拡散していくのだ。

趣味の世界にせよ、政治の世界にせよ、これがもう数年以上続いているのが、今の社会なんじゃないかと思っている。「あちら側」に寄り添える「こちら側」の人と、そうではない人に分断されているような気がする。もはや、「こちら側に寄り添うあちら側」ではなくて、「あちら側に寄り添える人しかこちら側にしかなれない」とすらなりそうだ。

きっと、昭和の時代は、文壇だったりが「あちら側」と「こちら側」の境界線に立っていて、表現自体や、その表現への感想だったりの交通整理ができていたんだろう。そのぶん、格式高くてつまらない部分もあったとは思う。

現場文化とインターネットによってあらゆる「あちら側」と「こちら側」が発生して、ときには倒錯しているのが今の面白みだと思う。それは文壇の時代にはなかったダイナミズムだ。だけれど、その行き着く先が「あちら側」と「こちら側」の分断でしかないのだとしたら、絶望ではあるんだよね。

僕が今好きなアイドルの世界も、こちら側とあちら側の境界があるから面白いと思っている。"No Border, No Idol."は、ヲタクとしての僕の口癖の1つだ。この境界線は、ハロプロや48のレッスンのドキュメンタリー化手法による「あちら側の情報のこちら側への公開」、地下アイドルや48が定着させた接触文化によるこの境界線のあいまい化があるんだけれども、それでもこの境界線はなくなっていない。

境界線があるからこそのコミュニケーションがあるし、刹那的な感情も生まれる。

それでも、「あちら側」を理解できない人は「こちら側」にはなれない。みたいな空気は感じることはある。アイドル業界もだいぶシュリンクが進んでいっているから、物分りのいい人ほど受け入れやすいんだろう。

そういう世界の分断が進む中で、僕は「あちら側」に飛び込んで行くべきなのか、それとも「こちら側」で完結できる世界に飛び込んで行くべきなのか。はたまた、このまま分断に抗っていくのか。ずーっと迷っている。

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