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8.水平思考で創造的思考力を伸ばすー三条大橋ー


飛び石から桁橋への垂直展開

 創造的思考力を伸ばすために、橋を対象にして水平思考(展開)垂直思考(展開)について考えてみた。
 水平展開では、古くからある「飛び石」に川床を安定化するという新たな役割を見出して、現在でも数多く使われている。

 一方、垂直展開では、より多くの人が安全に川を渡るために、「飛び石」を基台とし、板状の石や丸太を上に置いてつなぐ橋が考え出された。
 飛び石は、橋脚きょうきゃくの原型となり、橋脚の上に橋桁はしげたを乗せることで、桁橋けたはしが誕生した

 この垂直展開の例として、京都白川に架かる一本橋古門前橋を見てきたが、鴨川に架かる長大な三条大橋は水平展開、垂直展開のどちらから生まれてきたのであろうか?疑問が湧けば、調査の開始である。

鴨川に架かる現在の三条大橋

 現在の三条大橋は、橋長:73.3m、鴨川の中に5本横並びの柱状橋脚が9組、合計45本が立てられ、その上に主桁であるH型鋼が9列並べられ、鉄筋コンクリート床版しょうばん上に舗装が施された全幅:15.5mの9径間桁橋である。

写真1 鴨川上流側から見た現在の三条大橋

 2024年(令和6年)1月に完了した補修・修景工事では、欄干のほか、歩道舗装や防護柵が更新され、欄干の木材は杣山そまやまから切り出された「みやこ杣木そまぎ」、すなわち京都市左京区鞍馬や右京区京北産のひのきが用いられた。
 なお、欄干の擬宝珠ぎぼしは再利用され、歩道舗装は銀鼠色の市松模様、防護柵は麻の葉模様で、柱は檜皮色ひわだいろとされた。更新費用は4億円が必要と見積もられ、京都市のふるさと納税などでまかなわれた。

写真2 三条大橋のたもとに設置された「三条大橋の補修・修景」の碑

三条大橋の架橋・改修の歴史

 東海道の西の起点である三条大橋が歴史に登場するのは、室町時代にまでさかのぼる。現在のような木製の高欄に擬宝珠ぎぼしが設置されたのは、1590年(天正18年)に豊臣秀吉が増田長盛に命じて行った改修工事によるため、これが架橋年とされている。
 この擬宝珠に刻まれた銘によると、「基礎は地中に五尋(いつひろ,約9.1m)に埋め込まれ,切石の柱は63本ある。まさに日本の石柱橋としては最初のものだろう」とある。

 江戸時代三条大橋は二百数十年間で20回を越える洪水被害を受け,その一部が流出した。当時の鴨川は暴れ川であったようで、三条大橋の工事や入札の記録によると、17世紀半ばから幕末にかけて35回の改修工事が行われている。

 明治~大正には、幕府の直轄管理であった三条大橋は京都府に引き継がれ、1880年(明治13年)12月に架け替えられた。1912年(大正元年)には全幅:14.5mに拡幅され、主桁にH型鋼を用いて橋脚の数を減らした

 昭和~令和には、1950年(昭和25年)4月に現在の鋼単純H型橋が完成した。木製高欄の修理には、1974年(昭和49年)に国産木材の価格高騰で台湾檜たいわんひのきが利用され、2回目の修理は2022年(令和4年)秋~2024年(令和6年)にかけて国産檜が利用された。

写真3 1880年(明治13年)12月に架け替えられた当時の三条大橋 
出典:国立国会図書館デジタルコレクション

調査から分かったこと

 重要な情報は、擬宝珠に刻まれた「基礎は地中に五尋(いつひろ,約9.1m)に埋め込まれ,切石の柱は63本ある。まさに日本の石柱橋としては最初のものだろう。」である。

 長尺の石柱が初めて橋脚に使われたということは、1590年(天正18年)以前の三条大橋は仮橋のたぐいであり、橋脚も含めて加工が容易な木造橋であったと考えられる。
 自重の重い石材を橋桁に使うと1スパンを長くとることが難しく、また多くの橋脚を立てる必要もある。大橋の架橋には莫大な費用を要するため、全体を石橋とすることはできなかった

 国内では軽量な木材が容易に入手できたことから、一般には丸太橋から木造大橋へと発展してきたと考えられる。
 木造の橋脚が流水の腐食・摩耗に弱いことは明らかで、これを石造の橋脚に変更したことは革新技術といってよい。「主桁は木材」で「橋脚は石材」とする異なった材料に機能分担させたハイブリッド化技術である。

 その後、大正時代以降は、「主桁にH型鋼」を用いることで軽量化を図り、全幅を広げて、橋脚の数を減らす工夫が進められた。

 以上から、鴨川に架かる三条大橋は、従来の木造橋から橋脚を石柱とする水平展開により生み出されたものである。
 しかし、石材と木材という異なった材料を組み合わせるハイブリッド化技術の概念は、その後も、鋼材、複合材料の適用と、様々な形で橋の建造に応用されていくことになり、大きなインパクトをもたらした。


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