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愛されるはずのない存在だという呪縛からの解放

そういえば、、の話。

批判を恐れず書くならば、それは「病」だったのだろう、と思う。現時点では、すっかり忘れていたほどだが、わたしは、長らく、「自分は愛される存在ではない」という逃れられない呪縛に支配されていた。これは、今思えば、「愛される存在ではない」という前提が、まず、おかしいと理解できるのだが、当時はそれが自分の確固たる事実だった。

当然のごとく、自分が嫌いだったし、肯定も受容もできなかった。おそらく、愛されるには何か特別な「何か」を持たなくてはいけないという思い込みもあっただろう。そして、愛されるには、相手の理想となる「自分」をつくる必要があり、自分を取り繕うプロセスで、ますます自分の感情はおきざりになっていたのだと思う。

先ほどから、「断定」で書くことができないのは、もうその当時の記憶があやふやだからだ。その時は、毎日が精一杯で、ぎりぎりだった。相手の言動に一喜一憂し、常に気が張っている状態だった。

ただ、それはまだ自分にとって最大の苦しみではなかった。「愛されるかもしれない」という希望があるから。

最も苦しかったのは、現時点での「愛される存在ではない」と思い込んでいる自分が、相手から「好き」だと思われることだった。一見、それは幸せなことのように思える。しかし、現実はまったく違っていた。

「なぜ?」という疑問と恐れ。

自分が「愛される存在ではない」と思っているから、相手が自分を好きだということが信じられない。でも、信じたいとも思う。相手のことが好きであればあるほど、尚更苦しかった。絶望的な気持ちになった。だから、いつも泣いていた。だが、その時は、自分が何故泣いているのかすらわかっていなかった。

そして、圧倒的な喪失感。

悲観的な未来を次々と想像してしまう。「愛される存在ではない」という前提で、思考が始まっているから、いつか捨てられると思っている。今は何かの弾みや、幻想でいっしょにいることができているが、それはいつか崩れ去るだろうと予想できた。

しかし、わたしは、信じることを選択した。時間はかかったが。

それでも、不意にそれは訪れる。疑いや恐れ、悲観的な想像は、わたしを埋め尽くし、虚無感に襲われたり、無感情になったりした。その根本には、「愛されないものだという」呪縛が根強く残っていたのだろう。


最近、、、の話。

「愛されるはずのない存在」

いやいや、そんな人どこにもいないと、本気で思う。何もなくても、「わたし」として存在していることに意味がある。存在自体がギフト。わたしの価値は、他人の言動によって、揺らぐものではない。そして、怠惰な自分も、強情な自分も、絶望的な自分も、ドリーマーな自分も他の全側面の自分すべてを認めて、愛をもって向き合っていくことを通して、他者からの愛というものをさほど欲しなくなっていた。

いつしか、「愛されるはずのない存在」という思い込みは完全に消えていた。そこに、努力は必要なかった。したことといえば、自分の心に従うことだけだった。

今でも、失うことや、嫌われてしまうんじゃないだろうかと想像してしまう自分がいる。その瞬間、かつての暗闇が見えた。忘れていた感情を思い出した。底なしの闇に埋もれていくような絶望感。しかし、そこで踏み留めることができたのは、「今」に着地点を置こうとしたからだ。

「今の気持ちはどうなのか」

未来はどうなるかわからない。でも、今を大事にしよう。今、自分の気持ちに従うこと、そして、自分のありたい姿を全うすること。そう思うと、暗闇に埋もれそうになった自分を取り戻せた。

今はこんな自分になれたことがうれしい。愛される自分とか、形のあるものとか、正直どうでもいい。しあわせや愛をそのまま受け止め、ありのままの自分であれることが本当にうれしい。

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