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《6/9》ボナパルト家を取り巻く女性たち - マリア・ヴァレフスカ編【妊娠】

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1808年3月─マリアがパリにやってきて間もなく─ナポレオンはスペイン方面の戦線に向けてパリを発ちます。
それに伴い、マリアはポーランドに帰ったのでした。

ゴヤ画・マドリード、1808年5月3日
フランス軍によるスペイン支配を題材にした絵。
public domain / Wikimedia Commons


ここから1年と少し、マリアの足取りはよく分かりません。
そこでナポレオンの動きを見てみましょう。



戦争を行う傍ら、ナポレオンは新しい計画に向けても動いていました。
一向に子供を授からないジョゼフィーヌと離婚して、新しい結婚相手を見つけようとしていたのです。

そして同じ年の夏、再婚相手のリストを作らせます─。

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1808年夏、ナポレオンは再婚を考えお相手リストを入手していました。
年齢、宗教、国によって選ばれた名家の姫君は全部で17人。

一部ご紹介しましょう。

🇷🇺ロシア皇帝アレクサンドル1世の妹

左: アンナ / 右: エカテリーナ
いずれもパブリックドメイン

アンナ・パヴロヴナ(13歳)
エカテリーナ・パヴロヴナ(20歳)

若くてかわいい!
でもアレクサンドルから色良い返事が来ないなぁ…
(ナポレオン心の声)



🇦🇹 ハプスブルク家

1810年代のマリー・ルイーズか?とされている絵。
Grand Ladies

マリー・ルイーズ(16歳)

名家ハプスブルク家の皇女か!
彼女を嫁にすれば俺にも箔がつくってもんだ!
(ナポ以下略)



しかしヨーロッパ大陸中が敵だらけのナポレオン。
スペイン半島戦争に出発してから1年後の1809年春、
今度はオーストリアがフランスを急襲します。

ナポレオンはこの挑戦を受けて立ち、7月にはオーストリアを打ち負かしシェーンブルン宮殿に入りました。
そして再びマリアを呼び寄せ、2人の時を過ごすのでした。

シェーンブルン宮殿
Thomas Wolf, www.foto-tw.de • CC BY-SA 3.0 de
Wikimedia Commons
2人の肖像画をくっ付けただけなのに、
何となく寄り添ってる風になった



そしてその年の9月、マリアの懐妊が判明。
一向にジョゼフィーヌとの子宝に恵まれず自身の生殖能力に疑いを持っていたナポレオンでしたが、オレは子供が作れるんだ!と喜びを実感したのです。

unsplash より



続きます。

参考元はこちら↓

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