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歴史スキャンダル | ナポレオン3世と兄弟の父親問題

↑こちらの記事のおまけというか補足的な内容です。

超絶下世話かつ結論が出ない話なので、予めご了承ください。
(そして長い)

はじめに

ナポレオンの弟ルイ・ボナパルトと、その妻オルタンスとの間に産まれたとされる 3人の子供の話です。

ナポレオンから見ると、本来なら甥っ子にあたる関係です。

ところが、長男と三男の父親について諸々の噂があり、下手すると全員異父兄弟の可能性も。

まずは、それぞれの父親に関する説をサラッと見てみましょう。↓

全て事実だとしたら強烈すぎます。


では長男から順に詳しくみていきましょう。

1.長男 ナポレオン・シャルル

⚫︎1802年10月10日生まれ
⚫︎ナポレオンとオルタンスの子供説あり

Twitterの声とWikipedia

Wikipedia: オルタンス・ド・ボアルネ より

※落胤(らくいん)=父親に認知されていない私生児


もっと詳しく

ナポレオンは、ボナパルト家の血を引く後継者の誕生にそれはそれは大喜び、この子を非常に可愛がったそう。

また先に貼ったWikipediaの通り、自分の養子にと強く望んだとか。
(4歳で早世した為、この願いは叶いませんでした)

そんな事もあり、実はナポレオンが 子供を産めない妻ジョゼフィーヌに代わってオルタンスに産ませた子ではないかと言われています。

左から: ジョゼフィーヌ、ナポレオン、オルタンス


反対派の意見

一方、この説にノーを唱える意見も。

当時ナポレオンを陥れようとしていたイギリスのマスコミ、或いは妻ジョゼフィーヌを陥れようとしていたナポレオンの妹たちが 勝手にオルタンスとの噂を流した、という説です。


またこの子は容姿も性格も父親のルイにそっくりだったという話もあります。

ここで、父ルイと長男の肖像画を見てみましょう。

左は竜騎兵隊の姿をしたルイ・ボナパルト。
1852年にシャルル・ジャラベール、ジャン=バティスト・イザベイによって描かれたもの。

右は長男ナポレオン・シャルル。
1807年に完成した「ナポレオン一世の戴冠式と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠」の中で描かれている姿です。
画家はジャック=ルイ・ダヴィッド。

違う画家が描いたのに そっくりですよね。
という訳で、個人的に長男がナポレオンの子供説は無いと思っています。

2.次男 ナポレオン・ルイ

⚫︎1804年10月11日生まれ
⚫︎特に疑惑なし

これと言った特記なし。
もし何かご存知の方がいらしたら教えて下さい。


次が大変です。

3.三男 ルイ・ナポレオン

⚫︎1808年4月20日生まれ
⚫︎父親候補がたくさん
⚫︎ボナパルト家と遺伝子が一致しない事が判明

のちのフランス皇帝・ナポレオン3世。
疑惑が盛りだくさんです。

まずはTwitterの声を見てみましょう。

Twitterの声

↓オルタンスの愛人の存在に言及しています↓



↓父親候補のひとり、フェルハエル↓

(当記事では、独自に調べてフェルヒュールと表記しました)

もっと詳しく

三男ルイ・ナポレオンの父親容疑 候補者は、次の3人が挙げられます。
(オルタンス夫のルイを除く)

この3人は、三男の出生を紐解く上で重要なコテレへの旅に同行していたと言われています。

(コテレへの旅とは?)

1807年5月にオランダで長男を亡くして以来 塞ぎ込んでいたオルタンスが、健康回復の目的でピレネー山脈にあるコテレという温泉街を訪れた旅のこと。

期間は6月初旬〜8月10日までの2ヶ月ほど。
これが、実は1808年4月20日生まれの三男ルイ・ナポレオンの推定受胎時期(前年の7月28日ごろ)と一致するのです。

コテレの景色。かなりワイルドな場所です。
Père Igor CCBY-SA 3.0 wikimedia commons


コテレへは山岳ガイドや従者も連れての旅だったようですが、何故この3人が父親候補とされているのか?
もう少し詳しく見てみましょう。

①フェルヒュール

⚫︎オランダ元帥並びに在仏オランダ大使 
⚫︎1807年当時43歳、既婚

元々オルタンスと親密な関係だったようで、夫ルイならびに当時のオランダ国民は、三男の父はこのフェルヒュールであると疑っていたそうです。

ルイは妻と彼の不貞行為への抗議として、出産や儀式にも参加しなかったと言います。

②エリー・ドゥカズ

⚫︎オルタンスや夫ルイの顧問弁護士 
⚫︎1807年当時26歳、妻とは死別

何故この人の名前が出てくるのかはよく分かりませんでした。

フェルヒュールと違い、嫉妬深いルイからも信頼されていたようです。

見た目は肖像画のとおりイケメンで、背も高かったようです。
敢えて疑問を呈すならば、何故険しい山岳地帯に若いイケメン弁護士を連れて行く必要があったのかという点ですかね。


③バイランド

⚫︎オルタンスの従者
⚫︎1807年当時33歳、未婚

三男が生まれた年に、在蘭ロシア大使から「三男の父親はバイラントである」との証言が出ます。

一方オルタンスは 回想録の中で彼について
「コテレへの険しい道に執拗について来て危ない目にあったので、安全を考慮してオランダに帰した」
と綴っています。

双方の言い分が食い違っていますね。

コテレがあるピレネー山脈





しかし2人の接点がもう一つ。
三男誕生から13年後の1821年、彼はナポレオンの没落に伴い外国を転々としていたオルタンスと何度も会っていたことが発覚します。


これらをひっくるめて考えると、

・ナポレオンを陥れたかったロシア大使があらぬ噂を流した

・バイラントがオルタンスにご執心で、付き纏っていた

(つまりバイラントは父親では無い?)

と考えるのが1番自然な気がします。


ただオルタンスが回想録で述べている事はフェイクの可能性も指摘されており、何が真実なのかは不明です…。

ルイが父親説


ところで、実は夫ルイが父親である可能性も排除できないのです。

彼はオルタンスと同時期に短期間コテレを訪れ、更に8月12日にトゥールーズでも再会しています。

地図: 紀行地図 さんより

(なぜ不仲のルイとオルタンスが一緒にいたのか?)
推測ですが、

・ルイはリウマチ持ちだったのでその治療目的
・ナポレオンから嫁と仲良くするよう言われていたので、彼なりの歩み寄り

辺りが考えられます。


受胎期間とは少しずれますが、早産だったと説明できなくもない時期です。

実際三男は身体が弱かったようですし、オルタンスも早産で生まれていますしね…


というわけで、歴史家の多くは
「何だかんだでルイが父親だろう」
という意見でした。

しかし、のちにこの説を覆す発見がなされます。


遺伝子の不一致

三男ルイ・ナポレオンには、ボナパルト家の男子に共通するY染色体(父から息子にのみ遺伝するもの)が無い事が判明したのです。

もう少し詳しく言うと、ルイ・ナポレオンと、ナポレオンの弟リュシアンジェロームとの間のY染色体が一致しなかったのです。

これによって、

・母オルタンスが浮気した
・祖母レティツィアが浮気した


という2つの仮説が立てられます。

本来ならY染色体は一致する筈



オルタンスに愛人がいたと考えられる事は既に述べましたが、実は夫ルイの母レティツィアにも愛人がいた説があります。↓

レティツィアの愛人だったと言われるマルブフ


ただこの母はお堅く厳格な人で 身持ちが軽いジョゼフィーヌやオルタンスを嫌っていたそうですから、そんな人が浮気なんてするのだろうかと疑問が残る所です。


歴史好きの間でも割と意見が真っ二つでした。
ルイのお墓を掘り返して調査すれば早い気がするんですけどね…
知らない方が良いこともある⁉︎

まとめ

ナポレオンの弟、ルイ・ボナパルトと妻オルタンスとの間に生まれたとされる 3人の子供たちの父親問題について考えました。

まとめると

⚫︎長男
→ナポレオンの子との疑いがあるが可能性は低い

⚫︎次男
→問題なし

⚫︎三男
→まぁまぁクロに近い


しかしながら、長男、次男とも早くに亡くなり、この中で1番ナポレオンの遺伝子を持ってなさそうな三男がのちにナポレオン3世としてフランスの指導者になったと言うのが なんとも皮肉ですね。

本日も、長々と下世話な話にお付き合い下さりありがとうございました!

参考

・Wikipedia

 Musick’s Monument Contact Me - Hortense

PASSION - HISTORIE.net

Cauterets - Une énigme historique
Qui est le père de Napoléon III ?

・atlantico
《 Et si Napoléon III n'était pas le neveu de l'illustre empereur ? 》

・カンパン夫人:フランス革命を生き抜いた首席侍女 

・Queen Hortense: A Life Picture of the Napoleonic Era


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