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《7/9》ボナパルト家を取り巻く女性たち - マリア・ヴァレフスカ編【出産、パリへ】

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ジョゼフィーヌとの離婚を決めたナポレオン。

ウィーンで愛人マリアの懐妊が分かった後フランスに戻り、11月の終わりにはジョゼフィーヌに別れ話を切り出します。
そして翌年1月には離婚手続きを終えました。

ナポレオンとジョゼフィーヌの離婚
Photo credit: The Wallace Collection
CC BY-NC-ND



一方のマリア。
…の記録は見つけられず、9月に妊娠→翌年5月ポーランドのバレビツェWalewiceで出産という事しか分かりませんでした。

一説によると、マリアはナポレオンと共にパリに行きそこで出産する事を望んだが、ポーランドの夫よりこちらに帰るよう言われたとか。

という訳で、どこかのタイミングでウィーンからポーランドに帰国して、その後記録に残せないような修羅場があったのでしょうかね…

妄想は膨らみますが、ひとまず先に進みます。



繰り返しになりますが、マリアは1810年5月にナポレオンとの子供を出産。

この時生まれた男児は、アレクサンドル・ワレフスキと名付けられました。
つまりナポレオンの子ではなく、マリアの夫・ワレフスキ伯爵の子として認知されたのです。

アレクサンドルの顔は、最終回までヒミツ!
unsplash より



一方のナポレオンはこの出産の1ヶ月ほど前に、ハプスブルク家の皇女と再婚。

(左)ナポレオン / (右)後妻マリー・ルイーズ


アレクサンドルの誕生を知ったのもハネムーン先のベルギーで、お祝いとしてレース(ベルギーは今でもレースが名産ですね)と2万フランを贈ったとか。

ベルギー産レース(マリアに贈ったものとは別)
Public domain / Wikimedia Commons


マリアを妊娠させたにも関わらず、自身の血統に箔をつける為、名門ハプスブルク家から妻を迎えていたのです─。



では、マリアとナポレオンの関係はここで終わりだったのかと言うと、そうではありません。

ナポレオンは出産したマリアに、パリに来ないかと誘う手紙を送ります。
そしてマリアはその招待を受けて、1810年11月、生後半年の息子を連れてパリに移りました。



翌年、親子はパリ郊外のブローニュに邸宅を与えられます( maisonメゾン Marieマリー  Walewskaヴァレフスカ )。

メゾン・マリー・ヴァレフスカ
フランスの国定史跡に認定されているそう
CC BY-SA 3.0 / Wikimedia Commons



またナポレオンはナポリ近郊の農場60ヵ所を息子アレクサンドルに寄贈。
アレクサンドルは年間収入16万フラン以上が保証される事になったのです。

ナポリは、当時ナポレオンの支配下(ピンク線内)に
ありました
Alexander Altenhof • CC BY-SA 3.0(赤文字追記)
Wikimedia Commons



その夏、マリアは遂に夫であるワレフスキ伯爵離婚
この結婚は、母と兄弟に強要されたものだというのが理由でした。
2人の息子の経済的責任はマリアが負うことになりました。

unsplash より


こうしてマリアは、ナポレオンの庇護を受けながら息子と幸せに暮らしました、
めでたしめでたし─。

という訳にはいきませんでした。

続きます。

参考元はこちら↓

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