民主主義の腐敗を意味するポピュリズム

近年ポピュリズムないしポピュリストという言葉をよく耳にする気がする。

日本語では平民主義、大衆主義や反エリート主義と訳され、労働者側の人々を構成員とする一般大衆の利益や権利を守ると掲げ支持を獲得し、既存の体制や知識人などを批判する政治「思想-①のことである。

前述のありのままの言葉の意味だけをくみ取ればポピュリストは弱者の代弁者として強大な権力に立ち向かう正義の味方のような印象を受ける
かもしれない。しかしこの言葉には近年もう一つの意味合いが加えられ幅広い領域を示すようになった。

そのもう一つの意味とはウィキペディアから一部引用すると複雑な政治争点を単純化して徒に民衆の人気取りに終始する「姿勢-②である。

複雑な政治争点を単純化というのは、例えば「平等」「改革」「保障」といった単純で耳触りのいい言葉をスローガンに掲げることをいう。皆さんも思い当たる節があるのではないだろうか。

そもそもポピュリズムという言葉はあまり肯定的ではなく、否定的な意味を表現するために使われていることは政治に詳しくない方も理解していると思う。

否定的ということはこの政治思想が悪しき思想であると多くの人間が認識しているということだ。

多くの人間が認識しているということはつまり、この思想が危険視されるほどの確固たる理由がある。

しかし、私は非難の対象となるべきなのは果たしてポピュリズムだけなのだろうかと疑問を持っている。

今回はこのポピュリズムについて深く掘り下げたい。

私はの最後を鍵括弧で「思想」と「姿勢」を強調し、示した。

思想はいわば個人の考えていることだ。そして姿勢は思想によって裏打ちされ目で見える形で外部に表れる人間の姿だ本来この二つは政治家なら一貫していなければならない。

しかし、最近の政治家は対にならなければならない思想と姿勢を乖離させた。

具体的に言うと自らの政治思想は語らず(もしくはなく)ただ大衆に寄った聞こえの良い、わかりやすい言葉を並べて支持を得ようとしており、そのような政治家をポピュリストと呼んでいるの
だ。

また本来細かい党理念が必要な政党だがワンイシュー(one-issue)と呼ばれる単純明快な一つのスローガンだけを掲げ、そのスローガンのためだけにまい進する政党が増えてきている。

確かにポピュリストと呼ばれる政治家は昔から居ただろう。しかし昔よりも選挙活動が半ばパフォーマンスという娯楽に成り下がっている印象を受けてならない。

日本でポピュリストの例を挙げるなら6月の参議院選挙で世間を盛り上げた令和新選組山本太郎氏、NHKから国民を守る党の立花孝志氏の二人が挙げられる。

立花孝志氏が率いるこの政党は「NHKをぶっ壊す」という一つの過激に聞こえる分かりやすい
スローガンを謳い、脚光を浴びた。

これは最も典型的なワンイシュー政党である。

彼はとりあえず注目を集めることを重点に置いており、彼の話題は定期的に浮上してくる。それはメディアも彼の動向を常に注視しているということに他ならず、彼の戦略は成功しているといえるだろう。

つまりNHKという既得権益に対する批判を「NHKをぶっ壊す」という過激で短いスローガンに希釈し、政治を単純化した。

山本太郎氏の場合は自らをポピュリストであると自認している。例えば「税金をお金を持っていない人から取るな、お金を持っている奴から取れ」という発言などから所得が少ない大衆の人々を擁護し、富裕層を批判している。

さらに彼は政党員を障害者というマイノリティの立場の人を据え弱者の味方というパフォーマンスを貫いている。

このようなポピュリズム、ポピュリストの風は世界的な風潮であることを理解してほしい。トランプ氏もポピュリストの一人だ。

トランプ氏も選挙期間中の演説を見てもらえればわかるが、メディアが取り上げない部分でも過激な発言を多く述べている。しかし当選し政権の座に就くとその過激な発言内容を現実的な形に落とし込んでいる。

現在も莫大なフォロワー数を有するツイッターアカウントでの発信も怠らない。彼の行動がただのパフォーマンスであることは疑いようがない。

そして彼の支持者は所得の少ない白人労働者であることもポピュリストであることの裏付けだ。

ヨーロッパでもポピュリズムが猛威を振るっている。特に難民の受け入れが自国の労働者の雇用を奪うという大衆側の政党や反EUをのみを掲げるワンイシュー政党が存在する。

フランスではフランスのトランプこと「国民戦線」マリーヌ・ルペン氏、イタリアの政党「同盟」のサルヴィーニ氏、ドイツの「ドイツのための選択肢」(AfD)やオランダ「自由党」、オーストリア「自由党」、イギリスでは「ブレク
ジット党というワンイシュー政党も存在する。

世界中でポピュリスト旋風が巻き起こっているのだ。

ここで明確にしておきたいのが私はポピュリズムやポピュリストをあまり批判する気はない。

もちろん非難の対象からは外れないがポピュリズムの台頭を許したのはポピュリスト側にはないのではないかと考えている。

なぜなら、政治家として至極合理的な判断をしているからだ。

民主政で票を稼ぐのに、マジョリティーである大衆に語りかけることは全くもって効果的であり、選挙に勝つための近道なのである。

そして大衆に効果的に訴えかけるためにパフォーマンスへと失墜した手法を採用する彼らは、この時代たとえ嘘だとしてもそれを行わないと選挙に勝てないと職業本能的に理解しているのだ。

結論から言うとポピュリストの台頭を許している責任の咎を背負うべきなのは民衆だ。

政治を形骸化した分かりやすいパフォーマンスというレンズを通してしか捉えられなくなった民衆に寄った政治家がポピュリストと呼ばれ、こういった政治状況を体現する言葉として衆愚政治という言葉もある。

この考えは20世紀の思想家ハンナ・アーレントが「全体主義の起源」で著している。

彼女はドイツ生まれのユダヤ人でナチスのホロコーストから逃れるために渡米、アメリカでナチス批判のためにこの本を執筆した。アーレントはヒトラーという独裁者が誕生するメカニズムをこの本で述べている。

高いカリスマ性や大衆の言葉を代弁することに長けたポピュリストが大衆から高い人気を獲得し、そのまま支持を得続けるとそのポピュリストを民衆という大多数の力によって独裁者へと召し上げてしまう。

つまりポピュリストの行きつく最悪の形は独裁者と考えることができるのだ。

民主政において数はそのまま力へと直結する。たとえ少数が異を唱えたとしても数の力に圧殺され、立ち向かうことは難しくなるだろう。

歴史上さらにさかのぼってもこの理論が正しいことが証明される。古代ギリシャのアテネではすでに民主政が行われていた。

アテネの末期は対ペルシア軍事同盟であるデロス同盟の盟主都市としてエーゲ海の覇権を握り、事実上のアテネ帝国が完成する。

その間実権を握ったのがペリクレスだ。彼は弁舌に優れ国民の人気が高く民主的なシステムを完成させると陶片追放で政敵を追放し、15年間最高権力者の地位を独占した。正に独裁者へと変貌していたが、その前に亡くなってしまった。

彼の死後デロス同盟は瓦解し、デマゴーゴスと呼ばれる扇動政治家がはびこる衆愚政治に陥り滅ぶことになる。この時代の民主政がまだ未完成だったことも要因の一つかもしれない。

また共和政ローマでも戦争で名を挙げた政治家カエサルが終身独裁官に任命され独裁権を手に入れたが、それを危険視した共和政主義者によって暗殺された。

のちのオクタウィアヌスも戦争に勝利し、元老からアウグストゥスの称号が送られ、帝政ローマへと移行してしまう。

ペリクレス、カエサル、ナポレオン、ヒトラーなど民主的な決定によって選ばれた人物に権力が集中し、独裁者へと至ってしまう事例は多々あるのだ。

これは全て民衆の力であることを弁えなければならない。

これがまさに民主主義の弊害といえる。

私はポピュリズムが世界中を席巻していると述べたが、具体的に言うと民主主義の基盤が完成し、成熟した民主主義国家でポピュリズムが台頭しているのだ。

日本、アメリカ、ヨーロッパ諸国などがそれである。

これらの民主主義国家は民主主義がマイナスのベクトルで力が働いており、また歴史の過ちを繰り返すことになるのではないかと危惧している。

この事態を回避するためにも私はより多くの人々に政治的判断能力を養ってほしいと考えている。

次回はなぜ人々は政治的判断能力を失ったのか考察していきたと思う。

Polimos管理人 テル

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