1989年 革命の失敗と転換① ー日本の1989年と平成ー


かつて日本人は「熱狂」していた


社会主義への思索というもの自体はきっとトマス・モアが「ユートピア」を書くより前に始まっていたのだろうか。

きっと「平等」や格差の是正こそが万人のためになる。誰も苦しまない社会を目指したい。

「私の考える、社会主義を目指した人たちは良くも悪くも理想主義者で平和を求めながら暴力に訴えようとする不思議な人間たちである。」

1960年の安保闘争、ここ数年私はこの時代を知る人たちに会う機会を複数得た。

私にとって安保闘争は体験できない過去のもので現代の日本社会だけをみていると映像でしか見ることのないあの一件がフィクションのように思えて仕方がなかったのだ。

それくらい私にとってあれほどの熱量を戦後の日本社会が持ったという事実は衝撃なのだ。

故にずっと気になっていた。

あの時代の体験者と会ってその「空気」・「時代」・「思想」を聞いてみたいという私の願いはたった2人の体験談であるが貴重かつ興味深いもの大変有意義であった。

聞いた2人の内の1人は当時学生で活動に参加していたわけではないが当時の社会を「恐怖による反動が部分的な熱狂を呼んでいた。」と言っていた。細かく聞けば聞くほどにあの時代の特異性を感じるに至ったのだ。

もう1人はあの活動に参加し後のベトナム反戦運動にも関わった活動家だ。

活動家視点の意見というのも似たようなものでやはり「熱狂」していたという。

「再び戦争に引き込まれるんじゃないかって恐怖感があった。平和を維持するために動いている彼らがかっこよかった。」と言っていたのを聞いてやはり現代とは違う「熱」がそこにあってそれが何十万人に伝播していったのだ。

さらにその時、人を動かした「熱」は現代において感じられないという。

失われた「熱」。

これが私にあの活動を一つのフィクションと見せていた理由なのだろう。

確かにあの時代はあったのだ。

日本人が社会に「熱狂」した時代はいつだろうか。

スポーツなどで盛り上がることもあるし祭りごとでもそうだ。

現代人は娯楽に「熱狂」している。

「熱狂」というよりは「熱中」の方がまだ的を得ているかもしれない。

やはり「熱狂」の時代は終わりを告げているのかもしれない。

私はあの時代を少し羨ましく感じる。あれほどまでに「生」を感じる時代はもはや来ないのではないかと思ってしまう。

今日において「生きる」ということは当たり前で疑う余地のないものだ。

さらに「死」も生活から遠ざけられてしまった。日常生活において人間の「生」は当たり前に「死」非常識へと変わってしまった。

この時代の変遷こそ「熱狂」の消失の原因なのだろうか。

私は平成という時代こそ「熱狂」が完全に消失した時代だと考える。平成の約30年の間に人は社会に関心をどんどん持たなくなっていった。

昭和の終わりと共に大きな転換が訪れたのだ。

転換の平成
私にとって平成というのは危機感を抱く時代だったと考える。

私は平成の生まれなので平成の全部を意識的に体験できたわけではない。

だが、平成は危機の時代でありその危機は令和に引き継がれている。

バブル経済の最中、国民は「熱狂」していたのか。

私は浮かれていたという言葉のほうが当てはまる気がする。

バブルが崩壊し日本が「失われた30年」と
呼ばれる時代に突入していくと人々は社会への関心をますます失い会社などの小社会や疑似社会に関心を向けていく。

国家は国民との距離をますます離していき国民も経済などの自分の財布に影響があるとなると突如として政治に関心を持ち出し、メディアの批判のままに政権交代の実現に一役買った。

結果として日本人は平成の間に二度の政権交代を実現し再び自民党へと政権を戻した。これもまさに活動家の時代であった昭和後期からの転換であるだろう。

戦後、日本社会はGHQの統治の中、貧困社会を経験しそこから這い上がってきた。景気はどんどん好調になっていく。それと同時に様々な活動家が表れ群れを作っていった。

これは左翼と呼ばれる人たちに限らず右翼もそうだ。

左であれば「赤軍」「革○派」「ブント」などで右であれば「楯の会」などだ。

日本社会は煩雑する思想の中で部分的にまとまって躍動していた。

これも景気が好調になっている反面まだ抑圧されている個人の不安や不満が活動家の力を借りて表れたのだと思う。

しかし70年代以降このような活動家の姿は段々と減っていく。

それは経済が落ち着き多くの人が豊かになったということだろう。そしてバブル経済が始まり活動家の活動は縮小されていく。そして平成へと時代が移り「熱狂」はなくなった。

経済の豊かさが要因なら何も不思議なことはない。順当に失われるべくして失われたのだ。

では現在はどうだろう。

私はどこか息苦しさを昨今感じている。

それは私だけの話かもしれないがどこか不自由なのだ。

芥川龍之介は自殺の理由を「ぼんやりとした不安」であると言っていたが私も似たようなものを感じていてこれは社会の中で暗黙のうちに共有されているのではないかと思うのだ。

私の思う日本人の恐ろしいところは変わり身の早さだ。

1945年8/16の日本人と1945年8/14の日本人にほ大きな差がある。かつて武士道や朱子学などを倫理の基盤とし教育勅語などを信奉してきた日本人にいったい何が起こったのか。

これもまた一種の転換、人によっては革命と呼ぶかもしれない。

現代においてもこの日本人の特性は生きている。

私は年々の日本人の精神が脆弱になっていてるのではないかと危惧しているが、今抑えているものがかつての活動家のような存在によって呼び起こされた時、それは再び「熱狂」へと変わるのか。

それとも何も起きずこの不安の中に埋もれていくのか。

はたまた感じてないのか。

平成は沈みゆく時代だった。私は令和が沈み切る時代であって欲しくはないと思い、このような活動をしている。

私がみる平成は転換が起きた時代、雄々しかった日本が弱っていった時代だ。

興味があれば
西部邁 「六十年安保」(文藝春秋ライブラリー)
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Polimos管理人 オカソ

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