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もっとも美しい書物、あるいはロバについて

座右の書、を聞かれたら。

つねに手元において、なにかにつけて開いてみるような本はありますか?
そんな、座右の書になりそうなものを見つけた件について。

プラテーロは、小さくて、ふんわりとした綿毛のロバ。あんまりふんわりしているので、そのからだは、まるで綿ばかりでできていて、骨なんかないみたいだ。
けれど、その瞳のきらめきは、かたい黒水晶のカブト虫のよう。

プラテーロとわたし「プラテーロ」

書き出しからこれですよ。ロバのプラテーロが愛らしすぎて、なかなか読み進められない…。
スペインの詩人J.R.ヒメネスの『プラテーロとわたし』は散文詩というのかな、1〜2ページずつの短い文章がたくさん収められている。

そもそもは、絵本画家の長新太さんの絵ということで、絵を見たくて図書館で借りたもの。表紙の鮮やかな色使いも素敵だし、なかの線画もとても良い。
でも、文章もとてもとても良くて、基本的にはものを増やしたくないのだけど買ってしまった…

帯に江國香織さんのコメント。
「これはたぶん、
 私の知る限りもっとも美しい書物です。
 スペインの詩人ヒメネスが、およそ百年前に書いた
 この本のなかには、この世の、ありとあらゆる
 "善いもの" "美しいもの"が詰まっています」

んんん。スペインのカラッと明るい日差し、でもその明るさによって生じた濃い死の影。といったものを感じていたので、ちょっと感想は異なる気がするけども、善いし美しい。

語り手の詩人は、闘牛や祭りといったごみごみしたものは嫌いで、ロバのプラテーロといっしょに丘にのぼって空を見上げていたりする。

みんな、見張り人までも、祭りの行列を見に、町へ行ってしまった。プラテーロとわたしだけが居のこった。なんというやすらぎ!なんというすがすがしさ!なんというしあわせ!私はプラテーロを上の方の牧場に放してやる。それから、小鳥たちがいっぱいとまっている松の木の下にねそべり、オウマー・カイアームの詩を読みはじめる…
(略)
ときどき、プラテーロは食べるのをやめて、私を見る… 私は、ときどき読むのをやめて、プラテーロを見る。

プラテーロとわたし「日曜日」

可愛いいいいい!
この親密さというか、愛情というか、こころの交流というか、…言葉にするととたんに陳腐になってしまいそうななにかのつながり。美しい。情景描写も素晴らしい。

ロバのプラテーロは「オレンジ、こはく色のブドウ、透明な蜜がしたたるほどに紫がかったイチジクなどがすきだ」ということなんだけど(いちいち可愛い)、ロバって果物食べるの?と不思議に思っていたところ…

ロバつながりで。

ロバと(現在進行形で)旅をしている日本の人がいると聞いて読んでみた本で、ロバの食べもの事情も知ることができた。

ロバは、基本的には道に生えている草を食べるけど、果物も大好物とのこと。労働に用いるロバは、ごちそうである大麦や、さらにごちそうの果物を食べたことがない場合も。

つまり、ヒメネスおじさんはプラテーロをとっても甘やかしてる♡(まあ知ってたけど。)プラテーロがロバであること自体を忘れたりしているし。

せっかく都会(まち)まできたのだから、プラテーロにも花園を見せてやりたいと思った……私たちは、まだ実がいっぱいついている、アカシアとプラタナスの快い木かげを、鉄柵にそって、ゆっくりと花園の入口に近づいていった。
(略)
入口に着いて、花園にはいろうとすると、黄色いステッキと、大きな銀時計を持った、青い服の番人が私に言った。
――そのロバは、はいれませんぜ、だんな。
――ロバ?ロバってどんな?
と、私はずっと向こうにいるプラテーロを見ながら言った。彼が動物の姿をしているのを、すっかり忘れていたのだ。
――ロバはロバですぜ、だんな。ロバはロバですぜ……
そのことばで、私はようやく現実に戻った。

プラテーロとわたし「花園」

そこで、ヒメネスおじさんは「別の話をしてやりながら」プラテーロといっしょに立ち去ったのでした。
…というふうにして、好きな場面を挙げていくときりがない。

ほかにも、プラテーロは直接関係ないけれど、死んでしまったカナリアと白いバラの話(「カナリアは死んだ」)、落ち葉をみて木々が逆立ちしているようだ、という語り(「道」)など、心に染み込む詩がたくさん。

ロバの佇まい。

ヒメネスさんの詩、長新太さんの絵、高田晃太郎さんの旅行記のおかげで、ロバの可愛らしさ、健気さ、自分勝手さなどなどが好きになってしまった。今度から、犬派?猫派?と聞かれたら、ロバ派と答えようと思う。そして、小さい体で雪道も頑張るわたしの愛車を「プラテーロ号」と名付けることにする。

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