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ばーちゃんの太巻き

「食べる」ということを考えると、まずばーちゃんがこさえてくれた食べ物を思い出します。

ボクは群馬県の赤城山の麓、関東平野が始まるあたりの養蚕地帯で生まれました。
親が共働きだったので、小さい時は家から1キロ離れた母方のばーちゃんの家に預けられていて、幼稚園や小学校に通うようになっても、帰りはばあちゃんの家で親の帰りを待つ毎日で、昼ごはんやおやつはばーちゃんが手作りしてくれたものを食べていました。

明治生まれのばーちゃんはともかくよく働く人で、
養蚕業を兼ねたお百姓仕事の合間に、
家中の掃除は当たり前に、家人の服や布団を繕ったり、障子を張り替えたり、
風呂の炊き出しの薪を割ったり、量り売りの醤油や味噌や酒を買いに出たり。

お勝手に立てば、あんこを炊いて、つけもの漬けて、菜っ葉を茹でて、
うどんを打って、キンピラこさえて、天ぷらあげて、鯉をさばいて、
ボクのおやつに塩むすびやミソむすびのオニギリを握ってくれて。

「子どもが喜ぶから」ってカレーもこさえてくれたんだけど、
ガキンチョのボクには辛かろうと、S&Bインドカレーに水溶き片栗粉混ぜて甘口に変えて、グルテンのゴロンとした固まりがあったり、ネギは長ネギで醤油かけで食わされたけど、「孫にうまいもの食わせたい」て気持ちがガキンチョなりにうれしくて、そんなばーちゃんの気持ちこそ美味しさなんだと思っていたなあ。

そんなばーちゃんがいつも作っていたのが太巻きの海苔巻き寿司。

ごぼう、かんぴょう、椎茸の煮付け、卵焼き、キュウリ、桜でんぶが基本の具材。
たまに人参の煮付けや菜っ葉が加わって、簀巻きでワッシワッシと見事な手つきで巻き上げた太巻きは、海苔の切り口がピンと立った立派なヤツです。

誰かが結婚したとか、誰かが生まれたとか、誰かが死んだとか、そんな折々に、
そしてそんな折々でなくとも朝昼晩とばーちゃんの太巻きを食っていたなあ。

たくさん作って食べきれなければ「家に持ってけえれ」とか「◯◯さんちに届けてこー」とかね。
ばあちゃんの匂いを思うと、すっぱ甘い太巻きの匂いが心の底から沸き立ってくる感じ。

そんなばーちゃんが大好きだったはずのボクも、小学校高学年から中学へと進むにつれ、ばーちゃんの家に行くことは減ってゆき、食の嗜好も牛丼とかハンバーガーに変わってね。

その頃ボクの家族はなんやかやの問題を抱えていて、自分は思春期の真っ只中にあって、そうなってくるといよいよばーちゃんだ親戚だなんてものを煩わしく思うようになって、ばーちゃんの家を意識して避けていたかもしれません。

そんな嵐の真っ只中にある我が家に、朝早くばーちゃんが来るようになります。

ボクらが家族がまだ寝てる時間にやって来て、庭の草むしりとかしたら、
持ってきた太巻きを皿に移し、何を語るでも無く帰ってゆく。

それはばーちゃんなりのボクの家族への心配の仕方だったんだろうと、
今振り返ればわかる。

しかしボクはそういうことを「うっとうしい」と感じてしまう魔の思春期だったからなあ~、

「ばあちゃん、もういいよ~」みたいなことを口にしたか、心で思ったか、
その太巻きは美味しく食べていられただろうか?などなど、
思い出そうとすればするほど心のイガイガが湧き上がってきてしまう。

で、
そんなことが2年ほど続いたある日の朝、
いつものようにばーちゃんが置いて行った太巻きを見て
「ダメだ」と目を逸らしちゃったんだ。

形の崩れた太巻き。

海苔の縁がベロっと反り返って、メシや具がこぼれそうになっている。

ばーちゃんはもうあの立派な太巻きを作れなくなっている。

泣きそうになりながらも、その意味に向き合えない自分の弱さに毒づくばかりで、
ばあちゃんに優しい言葉ひとつかければ楽になれるのが分かっていても出来ない、ほんとクソバカ思春期野郎の「俺」

その後ばーちゃんがウチに来ることはどんどんと減ってゆき、
やがて寝たきりになり、
ボクがハタチの時の正月、何日か口をパクパクさせ続けた後、臨終した。

その後もエゴ街道をバタバタと突き進むボクは、そんな太巻きの記憶に鍵をかけ、
心の奥底に沈めてしまっていたはずです。

ばーちゃんの太巻きを失ってから30年。

息子が生まれて毎日家族で食事を共にする生活が当たり前になり、
東日本大震災もあったりして、
なにかのタイミングで太巻きの記憶の鍵が外れたみたいです。

ボクはばーちゃんの太巻きを食って育ち、
ばーちゃんの太巻きに死を感じ目をそらし、
しかし、
ばーちゃんは最後に立派な死に様を見せてくれた。

ばーちゃんがボクにやってくれたことを思うと、
その後の人生の中でギリギリ道を踏み外さないでこれたのは、
ばーちゃんのこさえてくれた食い物に対し、
「裏切るわけにはいかない」という気持ちがあったからだと思います・

そういうことをやっと、自分が息子を持ったことで気づくことが出来た。

そうしてあらためて思うばーちゃんの太巻きは、
甘いの、辛いの、しょっぱいの、酸っぱいの、苦いの、すべてが海苔に巻かれた、
人生そのもののようなすごい食べ物なんだとね、ありがたく思い出すのです。

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現在ボクは「暮しの手帖」の元編集長だった澤田康彦さんの京都新聞の日曜版でのエッセイの連載の挿絵を描いています。
先日届けられた澤田さんのエッセイは「送り手は"検証"せよ」とのタイトルで、
雑誌編集の上での大切な"検証"について、暮しの手帖では編集員みなさんが真摯に台所に立って調理をしている姿などを綴っていました。

そんなお話に添える絵はと考え、一汁三菜の乗せられた御膳なんてものを考えたのですが、そういえば澤田さんの暮しの手帖の最初の仕事は海苔巻き寿司ではなかったか、そして季節は間も無く節分だなあ〜と、9ヶ月続けてきたこの連載の中で、自分のばーちゃんから頂いた大切なものを反映させてみたいと思い、太巻きの絵を描きました。

このばーちゃんの太巻きの思い出は、何年か前に「東日本」と名付けた展覧会で、太巻きの絵と一緒に発表していて、しかし、もっと素直な表現に出来たらいいなと、どちらも今回書き直してみました。

毎年節分になると売れ残った恵方巻きの大量廃棄のニュースが伝えられるようになってしまっていますが、そうしたことを批判する以前で、なにが大切なのかを日々確認することこそ大切ではないか、なんて思っています。。

少なくとも、あの頃の自分の年齢に近づいてきた小学5年の息子との会話では、ばーちゃんの太巻きがどんな味だったのか、喜びをもって語りたいと思っています。

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