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本当にやりたいことを見失わないために~承認欲求のもたらす「かりそめの夢」ではなくて~

 このnoteは,日々忙しくて時間に追われている人にこそ読んで欲しいnoteだ。人によっては根本的な解決策を提示するものになるだろう。

 ◇◇◇

 「やりたいこと」が私にはたくさんある。
 特に,最近は「やりたいこと」がたくさんありすぎて,時間をどうやって捻出するかに悩むくらいである。ここ2日は時間に追われていたのでnoteを更新できなかった。

 「やりたいことが見つからない」という悩みをしばしば見かけるけれども,私にはそれが信じられない。私にとって「やりたいこと」は自然に浮かんでくるものだからだ。

 「やりたいことがない」
 この悩みに対する最良の解決策はただ一つだと思っている。
 「うだうだ考えずにいろいろやってみる」
 物事に慎重なのはある分野では大切かもしれないけれども,時として慎重すぎることは人生を窮屈にする。だから,とりあえずは動いてみる。動いてみたら,どこに行くかはわからないけど,とりあえず人生は進む。人生の景色が変われば,自然と「やりたいこと」は浮かんでくるのだ。

 だから,まずはとにかく動こう。
 このことは,noteをはじめた頃に書いた「現状維持バイアスをぶち壊す勇気」というnoteにもまとめている。意思決定の参考になると思うので,気になる方は是非読んでほしい。

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 一方で,「やりたいこと」をただ思い浮かべるだけでよいのだろうか。これが今日の本題である。

 最近読み始めた「鬼速PDCA」という書籍のなかで,正確なフレーズは覚えていないものの,やりたいことの理由を探ることが大切だという趣旨のことが書かれていた。書かれていた例は,高級車を買うという行動についてその理由を探ってみるということ。「友人に自慢する」という目的だった場合,その目的は果たして大切なのかということ。そういうことが書いてあったように思う。

 それを読んで,私は「やりたいこと」の理由を探ることの大切さを思い出した。最初の段階では「やりたいこと」をたくさん発掘するためにもとにかく行動していけばよいのだけれども,人間の体力と精神力には限界があるから,残念ながら「やりたいこと」を全て無限にこなせるわけではない。
 だから,どこかで「たいせつな夢」を絞り込んでいく必要があるのだ。

 二兎を追う者は二兎を得る可能性はあるし,三兎を追う者は三兎を獲る可能性もある。でも,さすがに同時に10兎を追うことはできないだろう。そんなことをしていたら,それこそ1兎も得られない。
 限られたリソース,つまり自分が持っている体力,精神力,そして経済的資源をどこに分配するか。資源をあまり多くに分配しすぎると1つ1つの分配濃度は限りなく薄くなり,資源の無駄遣いとなる。
 カルピスは薄めても美味しいけれども,薄めすぎるとおいしさを感じられなくなる。その臨界点を見極めるところに,生き方のセンスがあらわれるのだと思う。

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 先週まで,私は社会保険労務士の国家試験を受験しようと思っていた。私は障害福祉分野でよきアドバイスのできる弁護士でありたいと常々思っているが,社労士の受験科目には労災や年金など,障害福祉に役立つ科目が多くある。それが最初の動機であった。
 でも,あらためて考えてみて,そもそも国家試験を受験する必要はあるのだろうか。社労士の受験科目には,福祉につながらない科目もあり,それは私の苦手な暗記を多く要求するものだった。
 そもそも弁護士は社労士として登録する資格を持っている。だったら,あえて社労士の国家試験を受験する必要はないはずだ。なのに,どうして合格したかったのだろう。知識を得るだけであれば他に方法はいくらでもある。なのに,自分が必要としていない知識を勉強してまで受験する意味って何だろうか。そこまで考えたとき,ふと自分の中にひそむ承認欲求のようなものに気付いてしまったのだ。
 忙しいなかで難しめの国家試験を受けて合格した。その実績によって誰かに承認されたかったのではないか。もちろん,そんなことを意識して「受験しよう」と思ったわけではないが,あらためて振り返ると私の動機のなかにそういった「承認欲求」が潜んでいることに気付いてしまったのだ。
 くだらない・・・。
 動機の陰に潜むものに気付いたとき,私は,他の「やりたいこと」に割くリソースを捻出するため,受験を断念する決意をした。

◇◇◇

 誤解のないように言っておくと,「承認欲求」自体は自然な感情だ。人間が人に認めてもらいたいと思うのは自然なことだし,それが行動のエネルギーになる。

 でも,一方で,承認欲求にとらわれすぎる生き方は苦しいのではないかとも思っている。承認欲求を前面に押し出すと,人に認められるかどうかで生き方を決めることになる。それでいいのだろうか。それは,自分を「認める」という他人の行為に自分の人生をゆだねていることにならないだろうか。

 承認欲求は行動のエネルギーにはなるけれども,人生の羅針盤にはなりにくい。なぜなら,人から褒められる,称賛される行動にはたくさんの種類のものがあるからだ。国会議員でも売れっ子アイドルでも称賛される。「承認されたい」を一番の動機にしてしまうと,どこに進んでいいかわからなくなってくるだろう。

 本当に「やりたいこと」は承認欲求を超えたところにあるはずで,承認欲求がもたらす「かりそめの夢」に惑わされると時間を大幅に無駄にしてしまうことがある。そんなことを最近は考えている。もちろん,承認されると嬉しいのは当然だ。けれども,それは目的ではなく結果。承認はあとから勝手についてくるものだと思っている。

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 本当にやりたいことは,人が承認しようがしまいが楽しくてついやってしまうようなことなのだろうと思う。例えば,私がnoteで文章を書き続けているように。

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