光ある未来のために私たちは何を考えるべきか
人生はいずれ終わります。
終わりを迎えるとき、私たちは、長い人生だったと感じるでしょうか。それとも短いと感じるでしょうか。いずれにしても、終わりを迎えることがわかっている人生の中を、私たちは懸命に生きています。万人に共通する結末が分かっていたとしてもです。
漫画「ダイの大冒険」の中で、魔法使いのポップは、魔王に対し、人間の生き方を語ります。
「あんたらみてえな雲の上の連中に比べたらおれたち人間の一生なんてどのみち一瞬だろう!!?
だからこそ結果が見えてたって もがきぬいてやる!!!
一生懸命に生き抜いてやる!!!
残りの人生が50年だって5分だって同じことだ!!!
一瞬・・・!!だけど・・・閃光のように・・・!!!まぶしく燃えて生き抜いてやる!!!
それがおれたち人間の生き方だっ!!!」
閃光とはいっても、人それぞれ光り方は違うと思います。
光の強さも種類も違います。
けれども、誰もが、それぞれの光を放ちながら、短い人生を懸命に生きているのです。それぞれの光に優劣はありません。
そして・・・・
それは、障がいを抱えた方であっても、もちろん同様です。
約3年前、相模原の施設で多くの人が殺害されるという実に痛ましい事件がありました。19人もの犠牲者は戦後最悪のレベルです。
容疑者は、障がい者を排除すべきという主張を繰り返していました。
「障害者なんていなくなればいい」
「障害者はすべてを不幸にする」
「障害者には税金がかかる」
この考えは、「はじめに社会ありき」の発想です。
社会的に有用ならば生かし、そうでなければ排除するという発想です。ある意味、有用な行為ができるか否かで人を見ているのです。
ここまで極端ではなくても、政治家にもこの意見に同調する発言をする方もいるようです。また、ネット上でも「障害者不要論」が顔を出しているようです。
社会的に有用かどうかで人の生死を決めるなんて、いつの時代の発想でしょう。生死どころか、人の価値自体、社会的な有用性といった物差しで決めるべきものではありません。
誰しもが、いずれ老いにより社会的に有用な活動がしにくくなってきます。
突如の事故により寝たきりになるかもしれません。
この投稿をご覧になっている皆さんも例外ではありません。
そういう場合に、その人の価値を認めない社会を豊かであると言えるでしょうか。
仕事柄、障がいを克服しようと努力している姿に心を打たれたことがあります。
また、そういうテーマのドラマは数多く放映されてきました。
例えば、三浦春馬さん主演の「僕のいた時間」は、主人公がALSにかかり、次第に重度の障がい者になっていく物語です。主人公は、重い病気にも関わらず懸命に生き、その姿が多くの視聴者の心に響きました。
では、完全に寝たきりの方の場合はどうでしょうか。
自分で障がいを克服しようとすることが難しい場合です。
仕事柄、お母様に介護をされている間、たとえ寝たきりでも光り輝く笑顔を見せた子供を知っています。
お母様はお母様で、愛おしそうな優しい眼差しで介護をされています。
その人が何をするか、健常かどうかということではなく、介護される側も、介護する側も、ご本人が生きていることそれ自体に価値を見出しています。
それぞれ、光り方は違うにしても、皆、やはり閃光のように生きているのです。なのに、今回の事件では、19人の光が、1人の独善的な価値判断で無慈悲に消されてしまったのです。
個人的に、ここまで心がざわつくニュースは久しぶりでした。
人をみる、評価する価値基準は決して一つではありません。
ベストセラーとなった「嫌われる勇気」はお読みになった方もいると思います。同書には、他者のことを「行為」のレベルではなく「存在」のレベルで見るべきであると指摘されています。
書籍に登場する青年は、誰かの役に立てない人間に価値はないというなら、寝たきりとなった老人や病人たちは生きる価値すらないことになるのではないかと問いかけます。
これに対して、哲学者は答えます。
「他者のことを「行為」のレベルではなく、「存在」のレベルで見ていきましょう。他者が「なにをしたか」で判断せず、そこに存在していること、それ自体を喜び、感謝の言葉をかけていくのです。(略)存在のレベルで考えるなら、われわれは「ここに存在している」というだけで、すでに他者の役に立っているのだし、価値がある。これは疑いようのない事実です。」
ここまで「達観」することは直ちには難しいかもしれません。
ですが、人を社会的に有用な行為ができるかどうかを中心的尺度として評価する雰囲気が世間的に強まるのは、とても怖いことのように思います。
「一億総活躍社会」という言葉が現政権から出されています。みんな、社会で活躍しましょうという話です。
活躍したい人が活躍できる社会はよい社会だとは思います。
ですが、この言葉が裏返しにされ、活躍しない、つまり社会的に有用な行為をしない人が「価値がない」として排除される空気が醸成されないように強く願います。
誰もがそれぞれの光り方で生きている。
その光の価値は、「その人が社会的に有用な行動ができるか」という物差しだけで測れるものではないし、測るべきでもない。
そのことを忘れないでいることが、この事件に対するアンチテーゼになるのではないかと思っています。
これ以上、その人なりに一生懸命もがいて生きている人の光が理不尽に消されないことを望みます。
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