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【続】自分の意見を言う勇気

前回書いたこちらのnoteがわりと好評でしたので、今回はさらに掘り下げて「自分の意見を言う勇気」の持ち方について考えてみます。

自分の意見を言う勇気を持てないのは「心の枷(かせ)」があるからです。

意見を言いにくくなる「心の枷(かせ)」はいくつか考えられます。
でも、メインの「枷」はそれほど多くはなくて、次の2つに集約されると思っています。

1 意見を言えば嫌われるのではないかという気持ち
2 正しくて素晴らしい意見を言わなければいけないのではないかという気持ち

それぞれについて、より意見をいいやすくする考え方を検討してみます。

1 意見を言えば嫌われるのではないかという気持ちについて

この気持ちは、人と意見が渾然一体として捉えられていることから発生します。

対策としては「人と意見を分離する」という基本的ルールを思い出すことです。

意見は意見、人は人なのであり、意見の良し悪しと人の良し悪しは切り離して考えなければ、人を冷静にみることはできません。だから、意見に対して反論されても、それは「意見の当否」が問題となっているだけであり「人の当否」は別問題だと理解する必要があります。

もちろん、「人と意見を分離」できないタイプの人もいますから、意見の対立によって嫌われるリスクが全くないとは言いません。

それでも、少なくとも、自分が大切にする人については、意見を違えても「人と意見を分離する」賢明さを備えた人だと信頼し、必要な時には意見を言い合って相互理解を深めたいと思っています。

ただ、「人と意見を分離できない人」に対して意見を言う場合には、どこかで、人の当否は別問題であることを説明する必要があるかもしれません。

例えば、「君のことは大好きなんだ。ただ、これについてはどうも苦手で。」と言った感じでコミュニケーションをとっていく必要があるでしょう。

2 正しくて素晴らしい意見を言わなければいけないのではないかという気持ちについて

客観的に正しくて素晴らしい意見なんて存在しません。

最初からそのような意見を出せる人がいるなら、民主主義は不要ですよね。
様々な意見をぶつけ合うことで互いの利害を調整し、落とし所をさぐったり、お互いに「気づき」を得るということが大切なのですから、「正解」を見つけ出すプロセスに関与するのであれば、どんな意見だって価値があるのだと思っています。

意見に自信がなくて意見表明を控える背景には、「完全主義(完璧主義)」や「白黒思考」があります。

でも、意見単体で完璧(完全)であることはないだろうし、意見は「見方」や「立場」の問題であって、それが多様なほうが、最善解、最適解につながるだろうと考えましょう。

どんな意見も「最適解を見出すプロセスに寄与する」と考えれば、意見を言いやすくなってくるはずです。

◇◇◇

「意見を言う勇気」について、最後に考えておきたいことがあります。
それは【人や場所を大切にする態度というのはいったいどういうことなのか】ということです。

思うに、人や場所を大切にするということは、お互いの「ありのまま」を尊重しつつ、お互いの「ありのまま」を少しずつ意見の交換によって調和させていこうとする意志であったり態度であったりするのではないでしょうか。

それは、無関心、無意見、放任、傍観とは別のものだと思っています。

大切な関係だから「意見を言わない」のではなく、大切な関係だからこそ「意見を言う」という発想こそが、フラットな人間関係を健全に維持するために求められるのではないでしょうか。

私は、大切な人を大切にするために、いつだって対話の積極的な当事者でありたいと思っています。

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