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「忖度」は果たしていけないことなのか

「忖度」(そんたく)という言葉はある問題をきっかけに流行したのが昨年。

何の問題かといえば,森友学園問題と加計学園問題だ。
政治家の意図を推し量って動くことがあたかも「忖度」の代表例であるかのようにマスコミで流されていき,「忖度」にはマイナスイメージがついた。

だが,「忖度」は果たして本当にいけないことなのか。
私は,明確な理由をもって「忖度は悪いことではない」と主張したい。

◇◇◇

「忖度」とは,「他人の気持ちを推し量ること」をいう。
相手が何を感じているのか,何を思っているのかを想像することだ。

これ自体は全くマイナスイメージがつくような言葉ではない。
マイナスイメージがついたのは,森友学園問題などでの「忖度」の実際の使用法やバックグラウンドに問題があったからにすぎない。

他人の気持ちを推し量ることは,一般論としては悪くない行動だから,「忖度」自体に変なマイナスイメージがついてしまったことについては,不思議な現象だなと思っている。

それはあたかも「包丁」を使った殺人事件が起きたときに,「包丁」そのものにマイナスイメージがついてしまうようなものだ。あるいは,「自動車」による悲惨な交通事故がおきたとき,「自動車」そのものにマイナスイメージがついてしまうようなものだ。

本来,「忖度」すなわち「他人の気持ちを推し量ること」はいいことだと思う。

◇◇◇

この意見に対しては,他人の気持ちを正しく推し量ることなんて難しいから,誰もが言葉で明確に意見を表明しあっていったほうがよいという反論があるかもしれない。実際,こういう理由で「忖度なんていらない」というメッセージを発している人も多い。

確かに,明確に意見を表明し合う世の中のほうが誤解を生みにくい。
へたに察し合う文化より,クリアな意見を表明しあう世の中のほうが風通しがよいかもしれない。

でも,例えば「失語症」の人がいたとしよう。そして,その人が障害によって筆談もできない状況であったとすれば,その人に意見表明を求めることは無理だ。だから,失語症の人に接する人は,その人の気持ちを忖度するしかない。

じゃあ,そういう障害がない場合はどうか。
この場合は,全員が明確に意見を表明すればいいと思う人がいるかもしれない。

だが,私はオンラインサロンで「誰もが明確に意見表明できるわけではない」ということを学んだ。意見表明をしない人も何かを感じてはいる。思ってはいる。ただ,それを意見にすることや表明することが苦手であるだけだ。

その人たちに対して「意見があれば表明すればいいのに」と言い切ってしまうことが正しいのだろうか。意見表明が苦手であるというのも一つの個性だ。歌がうまい人もいれば下手な人がいるのと同じで,意見を表明することがうまい人もいれば下手な人もいる。

歌が下手な人に対して「いいから歌え」というのは明確なハラスメントだ。
だったら,意見を表明することが苦手な人に対して「意見があるなら言え。意見がなければ私の見解に賛成したものとみなす」と言ってしまうこともまたハラスメントにならないか。

声を出すのが好きな人や得意な人の陰に,声を出すのが嫌いな人や苦手な人が隠れていることを,私たちは忘れてはいけないのではないか。声を出さない人は「意見を持っていない」だけではなくて「声を出さない」だけではないか。その人たちに「声を出さないのが悪い」と言ってしまっていいのだろうか。

ここ最近のオンラインサロンでの議論をみて,私はそんなことを感じた。貴重な学びだと思ったから,今,こうやって文章に書いている。

◇◇◇

「忖度」に話を戻す。
結論としては,意見表明が嫌いな人,苦手な人も生きやすい世の中とするために,私は「意見表明」とともに「忖度」もあわせて使っていきたい。

意見の「表明」をしない人の思考や感情を黙殺しないためにこそ「忖度」は使われるべきなんだ。

もちろん,「忖度」した結果,推し量った他人の気持ちが間違っていることもあると思う。そういった「間違った忖度かもしれない」というある種の畏れを抱えた「忖度」を行うことが,これからの社会には求められているのかもしれない。

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