「聴く力」は”できない”が見えづらい

 コミュニケーションは,自分の話を相手に伝えることと,相手の話を聴くことで成り立っている。だから,コミュニケーション能力は「話す力」と「聴く力」の総合力といえる。

 「話す力」と「聴く力」

 どちらも大切ではあるけれど,コミュニケーション能力のなかではどうも「話す力」がクローズアップされがちな気がしている。

 なぜであろうか。

 それは,人の話を「聴く」ことは一応誰にでもできるからかもしれない。話し手の側にいて,うんうん相づちを打っていれば一応聴いたことにはなりそうである。話の内容を自分で考える必要もないし,受動的な態度でも一見よさそうな気がしてしまう。

 それに対して,楽しく「話す」ためには,まずは話の内容を思い浮かべなければいけない。それをわかりやすく構成し,その都度適切な表現を使う。確かに「聴く」よりもハードルが高そうだ,という気もしなくもない。

 飲み会で楽しく自分の話をしている人を見て,「うらやましいな。あんなふうに喋りたいな」と感じて「コミュニケーション能力をあげたい」と思った人も多そうな気がしている。

 でも,そう単純な話ではない。

 人の話を「聴く」のは実はとても難しい。うんうん相づちを打っていれば聴いたことになる,というのは間違いだ。

 まず,人の話にちゃんと心を傾ける必要がある。人の話を聞き「ながら」解決策を考えていたり,「あー,言っていることはそういうことかな」と勝手に「要約」したり,「つまんねぇな」と思ったり,上の空になったり。そういうマインドで人の話に接していても「聴いた」ことにはならないし,そのマインドは,超演技派でもない限り,かなりの確率で相手に伝わる。

 さらに,人の話を聴くマインドをセットしても,そのマインドで聴いてますよということを相手に伝える必要がある。しかも,言葉だけじゃだめで,態度でも。相手が楽しそうなら楽しそうに,相手が悲しそうなら悲しそうに。相手は何に興味があるのか。何を話したいのかを考え,相手が答えやすくて話したそうなことを質問する。

 そうして,「心地よく喋ることができた」と相手が感じることができたなら,どうだろう。あなたが流暢に「話す」ことをしなくても,話し方が多少つたなくても,相手は「この人と話しているととっても気持ちいい。心地いい!」って思い,それだけで一定の信頼感を持つ。

 逆を考えてみよう。めっちゃ流暢に喋って話もうまいけれども,あんまり人の話を聞こうとしないで自分の話ばかり人。こういう人が目の前にいたらどうですか?笑 

 本物の「聴く力」があれば,「話す力」の不足を補って相手の信頼を十分に得られる。一方,「話す力」が「聴く力」の不足を補って相手の信頼を得ていくというケースってあんまりない気がするんだよね。

 「聴く力」というのはそれだけのすごい力だ。そして,だからこそ習得は(簡単なように見えて)全く簡単ではないと思っている。

 「聴く」ことはかなり能動的な行為。なのに,「聴く」ことは受動的でもよさそうに見え,誰でもできそうに「みえてしまう」のであり,さらに自分もできていそうに「みえてしまう」ところに「聴く力」の難しさがあるのだと思う。

 「話す」ことについては「できる」「できない」の判定はわりと簡単だ。自分でも「話す」ことができているかはある程度自覚できるし,相手の反応をみれば楽しい話が出来ているかどうかはわかる。相手も話さないタイプだったら「沈黙」が多くなるから,なおさらわかりやすい。

 でも,「聴く」ことについては,「良い聴き方だったのか」ということはわりとわかりづらい。相づちを打っていれば,相手が話している限り,一応のコミュニケーションは成立してしまう。そして,相手が「おまえがちゃんと聴いてくれなかったから話しにくかったよ」なんて感想を言うことは考えられない。

 あらゆる技術は「できない」と認識したところから成長がはじまる。だから,コミュニケーション能力のことを考えるとき,つい「今日は話せただろうか」ということに目が向いてしまいがちになるのだけれども,むしろ「今日は聴けただろうか」ということに目を向けた方がよいとは思っている。

 

 

 

 

 

 

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