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目の前で起こることを受け入れるだけ



去年までのわたしは毎日心がジェットコースターだった。
ふと考え込むたびに泣いて、喜んでは転んで、そんなことの繰り返しだった。
そしてついに、今年に入って、なんだかその感覚が薄れてきた。

去年までの私は、怖がりだった。怖がりすぎたのだ。
好きな人が側にいること。離れていく気掛かりを日々探してた。
「幸せ」な状態も、怖かった。
この「幸せ」とやらに慣れてしまうことで、麻痺してしまうんじゃないか、いつか来る絶望があるんじゃないか、何があっても詰まるところ、”怖い”という気持ちと結びつく。


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良い意味で、今年に入って、いろんなことに絶望した。

私、そんな大きなこと出来る人間でもない。
小さいことを大切にしっかり、できたら良いんだ。

もうちょっと出来るんじゃないかと思って気を張っていたけど、
その期待値、どこから?自分に期待をしてるのも自分で、その期待に応えられるかなんてわからないし、そもそもなんでそんな期待をしてるんだろう。
良い意味で、絶望することがたくさんあった。

好きな人の不誠実な部分にも直面して、
良い意味で、絶望することができた。


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「本当はもっとこう出来たのに」

「本当はね、こうしたかったのに」


「この人はこんなことするはずない」


こんな仮想空間の類のことに執着して、もう疲れ果てたから、勝手に精神をすり減らしてきたから、自分を滑稽だと思うくらいに、たくさん考えたから。

疲れちゃって、疲れちゃって、もうポジティブにたくさんの自分にも、誰かにも、絶望した。これ、大事なのは「ポジティブに」絶望であるということ。
ポジティブな絶望だから、逆立ちしても恨んだり、皮肉を思ったりしていないことを主張したい。


こんなくだらないミスをしちゃった自分に、「こんなはずじゃ・・・」と平静を保とうとするんじゃなくて、「私はこんなくだらないミスをする人なんだよ」と認めて生きたほうが生きていてラクだ。
こんなくだらないミスをする私とハードルを落ち着かせて、少しステップあげるにはどうしたら良いかな?って考えたほうが、人生はのんびりだけど、心は呼吸ができる。


他人に対してもそうだ。今までの私は、「この人は絶対こんなことをするはずない。」って良くも悪くも信じようと必死だった。それは私の望みであり、エゴも少々含まれていて。実際にそうでない部分を知ってしまった時の絶望は一際だった。立てなくなる苦しみ。ひどい。なんでこんなこと。。みたいな思いが溢れてきて、どうかこの苦しい事実が嘘であってくれないか、自分にとって望んでいる/信じているあなたである証拠を探して心が酸素を求めていた。

これも同じで、私の望みや「信じている」なんて類は他人にとって「勝手にどうぞ」範疇のものだと思ったほうがいい。自分の望みを他人に反映して、そうじゃない部分を知ってしまって勝手に胸騒ぎを起こして、苦しみ始めるなんて、共感できないくらいの距離感を作って拝見してみれば、かなり滑稽さのある自業自得でもあるとおもう。


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目の前で起こっていることを、そのまま受け入れる。


これを少し、出来始めてから、心が落ち着いてきた。





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