諸々の話

父の誕生日に四十九日の法要をした。

七日づつ祈り故人に善行を足していって、四十九日めが故人が極楽浄土に行けるかどうかの審判の日だそうだが、未だ父の冥福は祈れない。


10年間没交渉だった父は10年分しっかり歳をとっていた。

小心者で弱いものばかりを標的にしてきた父が病気になって、弱さを盾にされたような気がして、いやおまえが私らにしてきたことは!?って思うけどでもあの弱った姿を見てお前はさあ!って言えるような気持ちにはなれなかった。

最後まで私たちなんかどうでもいいって言ってくれてたらよかったし、涙なんか見せず、会えてよかったなんて言ってくれなきゃよかった。悪かったなんて言う人じゃなかったのに、病気を盾にしてよくも言うたなと思う反面、一瞬救われた気になったのも事実で、それが自分をさらに情けなくさせた。


父の葬儀を終えてから今日まで毎日、日常に戻ることに必死だ。

その甲斐虚しく、自分や自分の家族や大事な人たちが亡くなった姿を想像してしまうようになった。例えでもなんでもなく、ふと気がつくと相手の顔の横に父の死に顔が見える。

私たちのお別れはいつで、その時私たちはどういう関係で、どういう気持ちでこの人たちの死に顔を見ることになるのか。


あなたの最期、あなたの招いた孤独だなとおもったよ。あなたにひどくされてきた子供たちがあなたのために心を砕いたさいごの数ヶ月、どう思ってたんだろう。許されたんだと思っていたのかな。

病気で弱った姿を見て情が湧いてしまった部分と、10年経っても変わらない無神経さや今までされてきたことにはやはり情を持てない部分があって、それでも棺桶に横たわる姿を見たら涙が出るし

これまでの私たちへの振る舞いや暴力が、その姿を思い出すと引っ込んでしまう。じぶんが情けなくなる


分家のおじいちゃんが、わたしの祖母や祖父の育て方が悪かったんじゃって言った時、ああ父ちゃんだけが悪いんじゃなかったんじゃって思ったあの安堵感わかるかなあ。
救われた気になったのは何かなぁ 何だったんじゃろうね

ほんでもさあ あなたも被害者なんじゃろうけどどうしてもそうは思えんよ わたしらどんだけ踏みにじられたか

これからまた時間が経ったらあの死に顔を思い出さんようになるんかな
それがええな 冷静にもの考えられんようになって父ちゃんのこと一瞬でもうっかり許してしまうから

なにがどうなれば決着だったのかあなたがまだ生きてたとしてもわからんけど、もう本当に会うこともないので、わたしはあなたのようにならないように生きるだけだなとおもうよ