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災害のあとに思うこと

路上で生活するひとの語りを聞いたことがありますか。
一人暮らしのお年寄りの家を訪ねたことがありますか。

台東区が住所がないひとの避難所への利用を拒否。そして税金を納めていない人々は避難所を利用すべきでないと区の対応に賛同するひと。
ヘリコプターで救助された高齢女性が搬送中に転落し心肺停止なったことに対して早期に避難しなかったことを批判するひと。

これがいまの日本の現実なの?本気でそんなこと思っているの?
それがごく一部のひとだとしても一定数賛同の声が上がっていることが怖くてたまらない。

路上で暮らす人のなかにもいろいろなひとがいるからトラブルを起こすひともいるかもしれない、心肺停止になった女性が本当にいざとなったら助けてもらおう、そう思って避難勧告を無視していたかもしれない。たしかにその可能性はあるけれど、事情がわからないのに苦しい状況にある人々のことを平気で批判できてしまう。しかもそれをSNSというだれもが閲覧できる場で発信してしまう。

路上で暮らすひとはみながみな働くことへの怠慢からそんな生活をしているわけではない。生活保護を受給し負い目を感じながら生きていくのは嫌だから、体が動くうちは日雇いでもなんでも自分で稼いだお金で生きていきたい、そう語るひと。
家庭の事情(暴力の被害者や家族関係のねじれなど)で住所を移すことができず生活保護を受けることもできず身を隠すように暮らすひと。

私が関わったことがあるひとは一部に過ぎないし、私の経験は彼らの生きざまを語るには足りないけれど、みんな様々な事情や思いを抱えながら路上で暮らしてる。
確かに日本社会からみたら“はみ出し者“と括られるひとが多いかもしれないし、価値観や習慣が違うと感じるひとも多いかもしれない。

でも災害だよ?台風だよ?彼らはなにも悪くないし、大変なのはみんな一緒だし、彼らの寝床は水浸しでどこにも身を寄せる場所がないんだよ?

家族がいて、学校に通うことができて、家に勉強する環境が整っていて、進学のチャンスがあって、心身ともに健康で。それが当たり前だと思っているひとは、仕事に就くこと、お金を稼ぐこと、衣食住が整えられることも当たり前のことで、それができないひと=怠慢だと認識してしまうんだろうな。本当はなにも当たり前なことなんてなくて、世の中には家庭の事情で学校に通うこと、勉強することが難しかったり、進学できなかったり、心や体に他のひとと違う課題を抱えていたりいろんな事情を抱えたひとがいる。過酷な環境でもチャンスをつかめるひともいれば、それが難しいひともいる。

批判したくなる気持ちもわかる。自分はこんなに頑張っているのに、税金も納めているのに、でもそんな思いは自分の心の中にとどめておくべきで発信して賛同を求めようとするべきではないはず。

ヘリコプターで救助中に落下して心肺停止になっている高齢女性のことだって、なにも状況が分からないのに、ましてやいま苦しい状況に置かれているのに。

“障害や病気があったのなら介助者の問題だ。“

その日たまたま体調が悪くて、近くに頼れるひともいなくて様子を見ているうちに自力で避難できない状況になってしまったのかもしれない。
障害や病気がある=介護者がいる、とも限らないし、その人の暮らしや生き方やその時の判断について情報を得ないまま、災害の被害者かつ現在心肺停止にある方のことをどうして批判できてしまうのだろう。

共感性や感受性や想像力が乏しすぎる。表面上の情報から短絡的に判断するのはやめよう。

私にはだれかを変えたり社会をよくしたりすることはできないからせめて自分は共感性や感受性や想像力を失わず生きていこう。そうすることしかできない。

社会にはいろいろなひとがいるし、台東区の件もヘリコプターの件も発言していたのは赤の他人だしどうでもいいといえばどうでもいい。無視してしまえばいいのかもしれない。でも心がざわつく。日本に帰って、日本で暮らしていくことが怖くなる。

自分の国に誇りを持って生きていきたい。
いい社会であってほしい。いい国であってほしい。

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