見出し画像

一つ歳を重ねて思うこと

約2週間の首都滞在を終えて任地に戻ってきた。
久しぶりに自分の部屋で過ごす週末。
なんだかすごく1日1日が長く感じた。

首都ではたくさん食べてたくさん飲んでたくさん笑って、たくさん語った。

約7か月間の活動のなかで思ったこと、感じたこと、隊員としての在り方、生きにくさ。

みんなもがきながらいろいろな困難と闘っていた。
みんな違う環境、違う課題、違う仲間、違う苦しみのなかで活動している。
だからだれかと比べたり、戦ったりしても仕方ないことはよくわかっている。

でも同じ国で活動する隊員たちも、アフリカで活動する日本人もみんな一生懸命で、覚悟があって、すごいひとばかりで自分がちっぽけに思えてならないときがある。

自分の覚悟のなさにがっかりする。
他人の幸せに責任が持てないとか、自分が部外者だとか言って、彼らに寄り添う姿勢をとっているつもりでも本当は覚悟ができていないだけ。中途半端なだけ。

そんな自分のみじめさから目を背けたいからなのか、最近は任期終了後のことを考えている時間が多い。

目の前の活動のことを考えなきゃいけないのに。
やらなきゃいけないこと、やってみたいことはたくさんあるのに。

久しぶりに職場に戻ると、首都の学校から医学生が実習に来ていた。
彼は表情、立ち振る舞いすべてが自信に満ちているように感じた。
私に将来の話をしてくれた。
「学校を卒業したら、病院に就職して、彼女と結婚して、子どもを3人、将来的には自分の病院かクリニックを持ちたい。」
目を輝かせてそう語ってくれた。

私にもやりたいこと、挑戦したいことはたくさんある。
それなのに彼に将来設計を尋ねられて答えることができなかった。
ああ、私は自分に自信がないんだなと思った。

こうしたい、ああなりたい、そんな将来像はいくつも描けるのにそれを実現する自信がないから言葉にできない。

先月26歳の誕生日を迎えた。母が私を生んだ年になった。
人生100年、いくつになっても挑戦できる。
それはそうかもしれないけれど、年を重ねるごとに失敗が怖くなって、劣等感が強くなって、あらゆる覚悟が揺らいでいるように感じる。

だれになんと言われようと国際協力の仕事に就くんだと言い張っていたころの私はどこに行ってしまったんだろう。

もうすぐ帰国してしまう先輩と話していたとき、「なにものかになりたいとか思ったりしないの?」と聞かれた。ここに来る前の私は、20代前半の私は“なにもの”かになりたかったような気がする。それがなにものなのかはわからないけれど、なにかを成し遂げたいと思っていた気がする。でもいまはその勢いや野望や威勢は消えかかっているような気がする。

それは年齢のせいなのか、ここにきて自分の未熟さに気づいたからなのかわからない。

家族や大切なひとがそばにいて、なにかあったとき力になれる距離で暮らしていて、電気や水が安定して使えて、社会保障があって、病気になったらすぐ清潔で設備が整った病院にいけて、想いを共有できる友達がいて。そんないままで当たり前だったことがいかに尊くて幸せなことかということを痛感させられる日々のなかで"平凡"が輝いて見えるようになった。遅すぎたような、早すぎたような、20代後半になってからのひとつの変化だ。

いまでも行きたい国はたくさんあるし、経験したいことも見たい景色もたくさんある。お母さんになって子どもに伝えたいこともたくさんある。でもあらゆる犠牲を払って一番に叶えたいなにかは消えかかっているように感じる。これが大人になるってことなのかな。年を重ねて色々な経験をして、素敵なひとたちと出会って、自分のことも世間のこともわかるようになって、角がとれて、寛容になった。でも素敵な大人の女性はそれだけじゃなくて、寛容で落ち着きがありながらなにかの実現を求めて歩み続けている。歳を重ねながらそのバランスを保つのって想像していたよりも難しい。

正直早く日本に帰りたいし、普通の暮らしがしたい。いまの一番の楽しみは一時帰国だし、まだ約1年半も任期が残っているのにこんな調子で大丈夫だろうかと自分が心配になる。

でも10日ぶりに職場に戻ると、“Well come back!! I missed you so much~”といって同僚たちが迎えてくれた。たとえただのマンパワーだとしても少しは必要とされていて、迎え入れてくれるひとがいる。素敵なひとと出会って、発見や学びがたくさんあって、自分を見つめなおす時間がたくさんあるこの2年間。ここでの暮らしは楽ではないし、孤独や苦しみとの闘いの連続だけれど次の誕生日もここで迎えることがいまの目標。

自分のしたいことや将来のことを自信を持って語れるひとになって日本に帰ろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?