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いま目の前で起こっていること

いつもの帰り道、赤ちゃんを抱えて道端に腰かけているお母さんがいた。
道端にひとがしゃがみ込んでいる姿はここでは当たり前の光景。
なんとなく目に留まったものの、さほど気にはならなかったけれど、一緒に帰っていたベテランナースがお母さんに声をかけて近づいていった。なんとなく気になって私もお母さんのそばに行った。

毛布でぐるぐる巻きにされた赤ちゃんは、両手に収まるほどの大きさで目は開かず、かすかな泣き声をあげていた。
遠目では気が付かなかった。妊娠24週で自宅出産し、車で20分ほどのところからタクシーでクリニックにやってきたけれど、クリニックでは対応不可だといわれ、病院に向かうため道端でタクシーが来るのを待っていた。

ナースは毛布を整え、少し話を聞いたあと、クリニックの助産師に連絡し一旦クリニックに返し、病院までの搬送車を手配し助産師付き添いで病院に送り届けるよう手配した。

私の町は首都から離れているけれど、州のなかでは2番目に発展した地域で、私の配属先はその町の中心にあるアーバンクリニック。それでも驚くほどに自宅出産が多い。そして、亡くなる子どもの数が多い。初回の妊婦検診に来てから消息が途絶えてしまうことも多々あるので、把握できているのは氷山の一角のような気がする。

施設分娩をすればすべての命が救えるわけではないし、早産や自宅出産に至る過程にもさまざまな要因があるので一概に施設分娩を推奨することはできないと思う。
ひとの命がうまれることも死ぬことも、本来自然の営みで、それぞれが望む場で望む環境で迎えるべき瞬間だと思っている。

今日であったお母さんは、生まれたばかりの赤ちゃんをじっと見つめながら悲しみを抱えながらなにかを覚悟するような険しく切ない表情をしていた。

出産後の痛みや倦怠感を押し殺しながら必死の思いでタクシーに乗って、藁にもすがる思いでクリニックまで来たんだろうな。24週間おなかのなかにいたひとつの命を愛しているからこうしてここまで来たんだろうな。

そう思ったら苦しくてたまらなかった。

生まれてくる命が長く持たないこともある。
それをどう受け止めるかはひとそれぞれ。神様が決めたことだと命の終わりをそっと受け入れることもあるかもしれない。望まない妊娠で子どもを授かり、ほっと胸をなでおろすこともあるかもしれない。本来は望まない妊娠がなくなれば一番いいけれど、なかなかそれは難しい。教育、保健システム、予算、価値観、宗教、環境、ジェンダー意識、すべてが変化しなければいけない根深い課題。
だから施設分娩の件数を増やすとか、死産の数を減らすとか、そういう数字で語ることには興味がない。

でも愛していた命の灯が消えかかっているのにどうすることもできないのは苦しすぎる。
どうにかしたいのに選択肢がないのは酷すぎる。

受け入れなきゃいけない悲しいできごともたくさんある。でももがきたいのに、すべがない、そんなことはなくならなきゃいけない。

今日であった赤ちゃんがこのあとどうなるかはわからない。
元気になるかもしれないし、天国に旅立つことになるかもしれない。

自宅出産して、もしその赤ちゃんがなくなることがあったら、日本では実名報道されるかもしれない。日本ではニュースで報道されるレベルのことが日常的に起こっている現実。

物がないとか、清潔操作が雑とか、倉庫が汚いとか、ヘルスワーカーの態度が横柄とか、そんなレベルの違いじゃない。

そんな現実を目の前にしてもなにもできないこの無力さ。
日本だったら、救急車を呼んで、病院に行って、病院に行けば医師がいて助産師がいて看護師がいて、ベッドがあって、薬や器具があって、NICUがあって…
でもここではそうはいかない。

この2年は学びの期間だと思っているし、なにもできないことなんて100も承知だから無力さを感じても落ち込んだり、悩んだりはしない。でも心にとめておかなきゃいけない使命感を感じる。なにもできないから、せめて心にとめて自分の心の動きとちゃんと向き合う。それが2年間の私の使命。

お金があれば何でも買えるし、広範囲で携帯電話の電波が拾えるし、インフラが整っている地域も増えているし、20年30年前と比べればアフリカの人々の暮らしは各段によくなっているのだと思う。でもたくさんの悲しい出来事、やるせない現実、貧困の苦しみがたくさんある。
ネガティブなことをアピールするのは、アフリカで暮らす身として正しいことではないのかもしれないなとも思う。でも目をそらすのも違うと思う。

半年前までの日常といま目の前ある現実があまりにも違っていて戸惑う毎日を送っている。

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