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支えることと支えられること

自分が支えられる立場になって、
世の中には支えられるひとと支えるひとの2種類の人間がいるのではなくて
みんな支えてもらわなきゃいけにことがあるし
逆にだれかの役に立てる。
だから困ったときには助けてといいやすくて、
自分のできることでだれかを支えるということをだれもが少し気軽にできるとみんなすごく楽になるのではないかなと思っています。

これは厚生労働省 元事務次官 村木厚子さんのことば。

https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=2296172557116821&id=101625603238205

支えられるひとと支える人の2種類の人間がいるわけではない。

20代半ば、このタイミングで協力隊参加をきめたとき、自分は無力だ。経験を積むためにアフリカに行く。勉強のための2年間だ。社会人経験もわずか、英語もたいして話せない。でも未熟だからこそ上手に現地のひとに甘えながらうまくやろう。
そんな風に思っていたはずだった。
覚悟を決めていたはずだった。

それなのにいつの間に、勝手にアフリカの人々を“支えるひと“というラベルを自分で自分に貼り始めていた。

日本からやってきたのに
青年海外協力隊員なのに
看護師なのに

そう考えると、少しでも現地の人からやさしくされるとそのやさしさが重たすぎで受け取りきれないような感覚に陥る。


こんな役立たずの日本人にやさしくしてくれるなんて...
ボランティアとしてザンビアに来てるのに...
なんだか申し訳ない…

そんな罪悪感に似た感情さえ抱く。

でも見方を変えれば
20代そこそこの日本人が英語も大して話せないのに、文化も環境も別世界のアフリカにやってきて一人で暮らし始めたわけであって

日本で働きはじめたばかりのころだって右も左もわからなくて先輩の後ろをついて歩いてた。2年経っても先輩に助けてもらってばかりだったし、失敗も絶えなかったし、迷惑もたくさんかけていた。家族にも友達にも甘えてばっかりだった。

よく考えてみれば母国である日本でだって一人歩きできてなかった若造が、アフリカで一人で立派に暮らせるわけなんてない。ましてや現地の人々の役に立てるわけなんてない。

確かに自分でお金を稼いで生活を送れるようになった。
一人で業務はこなせるようになった。

でも悩み事があるとき、疲れたとき、病気になったときすぐ頼れるところに家族や友達がいて、相談したり休んだり助けてもらったりしながらなんとか生活を送ってた。仕事だって一人で判断できないことばかりだったからいつも先輩に相談してアドバイスをもらっていたし、技術も未熟だったからまだまだ指導を受ける身だった。

いつの間にか一人前になった気でいたけれど、まだまだつかまり立ちのレベルだった。

そんな未熟者の私がアフリカで一人で暮らしているんだから、現地のひとのやさしさに甘えてもいいんじゃないか。
いまはまだ支えられることが多くてもいいんじゃないか。

“支えるひと”としてアフリカにきたんだから、”支えられるひと“になっちゃいけない。心のどこかでそんな思いがあったのかもしれない。だから親切にしてもらったり、優しくされたりすると罪悪感のようなものを感じていたのかもしれない。

やさしさにはやさしさで返せるひとになれればいい。
2年の間に返しきれなければ、長い時間をかけて返せればいい。

ゆるく、のんびり、焦らず
そんなことわかってるよって思ってたけど、知らず知らずのうちに背負っちゃってるものって大きい。
だから時々荷下ろしするのが大事だなと感じる日々。
でも荷下ろしにも結構エネルギーがいるなと気付く日々。

甘やかしすぎかな...とも思いながら
でも自分を甘やかしながらでも2年の任期を全うしたい。だからいいってことにしようかな、そうしようかな。

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