"アラサー女子"が思うこと

今日の職場で、一緒に働くボランティアの女性とこんなやりとりをした。

『ミナは、日本に帰ったら結婚するの?』
『うーん、どうかな。ひとりでは決められないし、まだわからない。
結婚してるの?』
『したけど、夫は亡くなったの。』
『いつ結婚したの?』
『えーっと、2002年だから…(電卓で計算する)18歳のとき』
『年齢は気にしないの?』
『うん、気にしないよ。』
『こどもはいるの?』
『うん、3人。ここに来てる間は、姉が面倒をみてくれてるの。彼女は先生だから、学校に連れて行ってくれてる。』
  


ザンビアでは女性が10代で結婚して子どもを産むのはごく当たり前のこと。
妊娠したから、子どもを産むし、結婚する。
結婚も出産もすごくシンプルなプロセスだ。妊婦検診には多くの女性たちがやってくる。自分と同じ年齢の女性が来ると、何人子どもを産んでいるか、1回目の出産はいつなのか、気になってしまう。
多くの女性が10代後半で1回目の出産を経験し、25~26歳で3人目を妊娠している。
同じ年に生まれて、同じ年月生きてきたはずなのに、こんなにも大きく違う私たちの人生。
もうすでに家庭を持ち、母として2人の子どもを育てているザンビアの女性。
かたや、母国を離れアフリカでボランティア活動をしている独身の私。 

私は経営者でもなんでもないし、そんな責任ある立場にあるわけじゃないから共感、納得どちらもなんだか違う気がするけど、同い年として響く内容だった。

結婚が女性のゴールではない。
母親になることが女性の務めでもない。
いろんな人生の形がある。いろんな家族の形がある。
でも20代も後半に入り、結婚ってなんだろうって考える。

結婚願望がこれっぽっちもなかった10代のころ。
結婚のためにだれかと出会って、打算的に結婚するなんて御免だと思っていた。
どうして周りから圧力をかけられて結婚しなくちゃいけないのか。
結婚のためにやりたいことをあきらめるなんてありえない。
10代の私はそう思っていた。

20歳を超えたころから、突然考えが変わった。
七五三や成人式と同じように、結婚は人生に必要なけじめのひとつなのかもしれないと思った。
家族ではないだれかに一生の伴侶として愛されるまでに成長しました。
育ててくれてありがとう、って家族に伝えて自立するけじめ。
親にとって成人したって、就職したって、いつになっても子どもは子ども。
結婚していない場合、万が一のときに一番の身よりは両親。
でも結婚したら、順番が変わる。両親から配偶者へと責任が移る。
そう考えるようになってから、本当に大切なひとと出会えたならば結婚したいな、と思うようになった。

看護師になってからは、様々な家族に関わった。親子三世代毎週末お見舞いにくるひと、両親兄弟とも疎遠で30年も連絡をとっていないひと、10年近く一緒にいるけれど結婚していないカップル、同性パートナーがお見舞いにくるひと、本妻ではなく内縁の妻がお見舞いにくるひと...


入院したらまずはじめに緊急連絡先を確認する。
基本的に優先順位をつけて、3つ。
結婚している場合、①配偶者②子どもまたは両親③兄弟
結婚していない場合、①②両親③兄弟
たいていの患者さんがこのように記載する。
家族と疎遠だったり、遠方に住んでいて万が一のときすぐに駆け付けるのが困難な場合、“友人”または"知人"を記載するひともいるが、緊急連絡先に“恋人“と記載するひとはかなりまれだ。たとえそれが恋人だったとしても、恋人は"友人"または"知人"の延長だからみんな"友人"か"知人"と記載する。
救急搬送された場合、身に着けている保険証や免許証から身元を特定し、親族または職場の上司のもとへ連絡がいく。
つまり、どんなに大切なひとがいたとしても、親族でない場合、なにかの手続きをとっていない場合、その場で真っ先に緊急事態を知らされる相手になることはない。

看護師としてたくさんの患者さんの死に立ち会った。
昨日まで元気だった患者さんの容態が急変することも珍しいことではなかった。
自分より年下の患者さんがなくなることもあった。
病院には毎日毎日何十台もの救急車がやってきた。

死も病気も、だれの身にいつ起きてもおかしくない。そう痛感させられる毎日だった。

結婚してなければ、どんなに大切なひとでも"知人"の一人。それはなんだか寂しい気がする。でも結婚しても、しなくても、家族になってもならなくても、一緒にいることは可能だし、大切なひともであることに変わりはないし、日常生活には変化はないのかもしれない。
でも緊急事態のときには婚姻関係の有無が大きな意味を持つことを知った。

大切なひとの身に万が一のことがあったとき、それを知らされないなんて悲しすぎる。
もし私の身に万が一のことがあったとき、大切なひとがそばにいないなんて悲しすぎる。

そう思ったとき、結婚したいと思った。

でも時代はどんどん進んでて、夫婦別姓、別居婚、同性パートナーなど男女の在り方、家族の在り方への議論が活発になっている。私が日本に帰るころには、緊急連絡先に戸籍上の親族ではないパートナーを記載することが当たり前になっているかもしれない。特に多様性が進む都市部では。
結婚せずに子どもを育てることも、近い将来当たり前になるかもしれない。

それに結婚しても働き続けるつもりだし、養ってもらおうなんてこれぽっちも考えてない。結婚したからといって、きっとそんなに大きな変化があるわけではない。
じゃあ、結婚する意味ってなんなんだろう。
でも、なにも変わらないなら結婚に足踏みする理由ってなんなんだろう。

結婚しなくても、パートナーとして一緒に生きることができる。
緊急事態のときも、パートナーとしてそばにいられる。
子どもも育てられる。

だったら結婚の形にこだわる必要はないのかもしれない。

でも結婚しないとしても、2人の子どもを育てるとか、"知人"ではない特別なパートナーとしてお互いの関係性を示すには、お互いの両親に挨拶をして、親戚と顔合わせをしてって、それなりの過程をふまなきゃいけない。それに子どもを産むってなったら、産休育休の時期とか子育てしながらも働きやすい職場かとか、考えなきゃいけないこと変わらなきゃいけないことはたくさんある。なにも変わらないといいつつ、それなりに変化も制限も起こる。それなら、結婚してしまえばいいんじゃないかとも思う。

結婚したら、一生別れず一緒にいる。
結婚したら、子どもを産める。
結婚したら、家族になれる。

それが当たり前の時代があったのかもしれない。でも離婚する夫婦も大勢いるし、家族の形も多様化してきている今、この方程式は成立しなくなってきていて、結婚はゴールでも保障でもなくなってきている。
そうなると婚姻関係にこだわる意味も、逆に婚姻関係を拒絶する意味も霞んでいてよくわからない。

子どものときは、好きなおもちゃや食べ物を選んでいればよかったのに、付き合う友達、進学する学校、住む場所、就職先、パートナー、結婚、出産、子どものこと、命の終わり方、どんどん決断するのに難易度が高い課題を突き付けられていく。

いままで散々悩みながら迷いながらここまで来た気がしてたけど、まだ5合目にも到達してないのかと思うと、改めて人生の険しさをまざまざと突きつけられているような気分だ。一生ゴールにたどり着けない迷路を進んでるみたいだなとも思う。

選択肢があるって素晴らしい。人生を自分らしくアレンジするためのオプションがたくさんあるって素晴らしい。でも選択肢が増えれば増えるほど悩みは増えて、迷路は複雑になる。

私の母は、今の私の年齢で母になった。

母とは全く違う人生を歩んでいるし、似ていないところもたくさんあし、考え方も違う。でもいつもどこかで母の背中をみつめ、母と自分を比べている気がする。一番身近で、一番想像がつきやすい未来像が母親だからだろうか。

任期が終わるころには27歳、その年の誕生日には28歳になる。もう死語になりつつある、"アラサー"。年齢なんて関係ない、そういいつつも生物学的にタイムリミットがある私たちは年齢を完全に無視する事はできない。年を重ねることがいいとか悪いとか、魅力があるとかないとか、それとはまた別次元で女性にとって年齢は否応なしに頭を悩ませてくる。

10代の頃、雑誌のなかの憧れのお姉さんだった彼女はいつの間にか結婚して母になっている。

年を重ねるほど、人生が進むスピードが速くて、それなのに目の前の問題は難しくて、不器用な私には手に負えない。

だからパートナーが必要なのかな、ひとりの手に負えないものも二人ならなんとかなるのかな。


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