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『ホテルルワンダ』をみて思うこと

ホテルルワンダを観た。
ずっと観なければいけないと思っていたのに、向き合えなかった映画。
"ヨーロッパによってもたらされた民族対立"
知識のない私には、映画を一本観ただけでこの問題について語る資格はない。
悲しみ、苦しみ、痛み、そんな言葉では足りないから映画の内容については触れないでおくので、どうかどうか観てください。


ああ、アフリカのことなにも理解しないままザンビアに来てしまったな…


映画を観ながらずっと考えていたこと。


ザンビアはかつてイギリスの植民地だった。
1964年にイギリスから独立し、ザンビア共和国が建国された。
ザンビア共和国のスローガンは、【One Zambia One Nation】
日本の約2倍の面積の国土に73の部族が暮らしているとされるザンビア。独立してから一度も民族的、政治的紛争は起きたことがなく、アフリカのなかでも平和な国とされている。

ザンビア、ってどこにあるの?笑

青年海外協力隊に行くことが決まったことを報告したとき、みな口をそろえてこう言った。

正直私もアフリカにある国だということしか知らなかった。
応募したい要請内容が挙がっている国がザンビアだった。
特別アフリカに関心が高かったわけでもないし、正直現場に行けるチャンスがもらえるならどこでもよかった。

今思い返せば自己満足も甚だしい。
自分のキャリアのため現場経験が積みたい。だからどこでもいいからチャンスが欲しい。
そして実際にザンビアに来てからは、あれがないやら、これが足りないやら、ここがだめやら、そんなことばっかり言っている。すごくすごく失礼なことしてたな、っていまさら気づいてもう反省しながらパソコンに向かってる。

1798年、共にポルトガル植民地だったアンゴラとモザンビークを結ぶためポルトガル人探検家が現在のザンビアに進出を開始した。その後1855年、イギリス人がこの地を訪れ、「モーシ・オワ・トウーニャ」の滝を発見し、ビクトリア女王の名に因んで、ビクトリアフォールズと名付けた。1880年代に入り、ヨーロッパ列強によるアフリカ分割が活発化し、ポルトガルとイギリスの利害が真向から対立した。イギリスは、南アフリカ会社の設立、ロシュナー協定締結を経て1890年ポルトガル軍の撤退に成功し、現在のジンバブエとザンビアに相当する地域の植民地化を決定的なものとした。
1898年初のヨーロッパ移民があったあと、1900年この地は正式にイギリスの保護領となった。1924年イギリスはこの地を北ローデシア保護領として直轄植民地化した。白人入植者主導のもと1953年、北ローデシアは南ローデシア(現ジンバブエ)とニヤサランド(現マラウィ)とともにローデシア・ニヤサランド連邦に編成された。第二代連邦首相が白人入植者を優遇した政策をとったことが、黒人民族主義者の反発を招き、1963年にローデシア・ニヤサランド連邦は崩壊した。その後北ローデシア植民地政府首相ケネス・カウンダと統一民族独立党により、1964年10月24日ザンビア共和国とて独立した。その後、ケネス・カウンダは国内の部族主義を克服するため、統一民族独立党を立ち上げ一党制を樹立した。1989年一党制に対し公然と複数政党制を要求する声があがり、1990年暴動を経複数政党制民主主義運動が結成された。その後1991年に複数政党制を導入した選挙が行われると、与党は破れ、独立後約27年間続いたカウンダ政権は終焉した。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B6%E3%83%B3%E3%83%93%E3%82%A2

ザンビアに来てから4か月も経つのに、ザンビアのこと何も知らない。
恥ずかしくなって、Googleに検索をかけた。
一番はじめに出てきたのはウィキペディアだった。
日本語で【ザンビア 歴史】検索をかけても、ウィキペディア以外に植民地支配にいたる経過や独立の過程についてかかれたページは見あたらなかった。ザンビアにいる間に参考文献、読まなきゃな。

ザンビアに来る前、訓練所でも任国事情という講座があって、自己学習をしたうえでザンビアでの活動を終え、帰国した先輩から話を聞く時間があった。
でもその時私たちが関心を向けていたことは、ザンビアでの生活のこと。
日本から12000キロも離れた未知の国で2年間一人暮らしをするんだから、それはそれは気になることばかり。日本から持っていったほうがいいものはなにか、ザンビアで帰るものはなにか、気候はどうか、病気になったときにはどうしたらいいのか…

国際協力とかいいながら、結局自分のことで頭がいっぱいだった。
きっとこのザンビアのウィキペディアのページも、これまでなんどもアクセスしたことがあったはず。
でもこうして今日改めて読み返してみて、はじめて見聞きするワードばかり。
自分の生活に直接関係がないことは見向きもせず、飛ばしていたんだろうな。

私は東部州の町で暮らしている。
マラウィ国境に近い地域で、住民の母語はセンガ語が中心で、ニャンジャ語やチェワ語も通じる。

ザンビアには約70の言語があるとされるが、公用語は英語。
ザンビアの学校では、1~3年生までは母語で授業を行い、4年生からすべての授業が英語で行われるようになる。

公用語が英語なので、政府が発行する公的な書類はすべて英語で記載されている。クリニックに掲示されている啓発のポスターはすべて英語で記載されているし、妊娠中の検診カードや子どもの成長モニタリングのカードもすべて英語で記載されている。たくさん情報は記載されているのに、それを読むことができるのは学校に4年以上通って、勉強についていくことができたひとたちだけ。

でも私が3か月間クリニックに勤務した感覚では、クリニックに来るひとのうち英語でコミュニケーションをとることができる割合は2~3割程度という印象だ。
What‘s your name?
How old are you?
そんな簡単な英語さえ、通じない。単語さえ通じないこともある。

公用語が英語なのに…

私は、公用語の英語が話せない住民に対しても、すべての書類を英語記載で作成する政府に対してもため息をついていた。

でもそもそも公用語が英語になった経緯って、植民地化が始まりだよね。

学校に行けない子どもがたくさんいる。
健康への関心が低い。
仕事へのモチベーションが低い。
援助頼みの姿勢のままじゃダメ。

そんなことばっかり言ってたけど、そもそもこの国のことなにも知らなかった。
確かに課題はたくさんある。
地理的要因、歴史的背景を理由にしていろいろあきらめるのは話が違うと思うし、内在的な強みを活かすことで変えられることはたくさんあるはず。

でも一度も植民地化されることがなかった日本で、日本人として、平和で安全な時代に生まれた私になにが分かるんだろうか、彼らの現状や未来について語る権利があるのだろうか。

植民地化、経済的支配、資本主義経済の導入、民族統一、言語の統一
すべて植民地支配から始まったこと。
そして貧困も格差も資本主義経済によって生まれるもの。

植民地化されてなくても、民族間での紛争は起こりえた。それに経済的に世界から取り残されて貧しい暮らしをするひとがもっと大勢いたかもしれない。国が発展したことで恩恵を受けているひとは確かにいるわけだし…

もし、アフリカに列強が進出していなかったらいまごろどんな世界になっていたのだろうか。
民族の首長が、民族ごとに統治して、民族ごとに現地の言葉を話して、農業や鉱業を生業にして暮らしていたのだろうか。実際今でも町から30分も車でいけば、そんな暮らしが営まれている。彼らは資本主義経済のなかでみれば、最貧困層といえる暮らしをしているけれど、列強国が資本主義経済を持ち込まなければみんな彼らのような暮らしをしていて、彼らは“貧しい人々“としてくくられることはなく暮らしていたのかもしれない。電気も水もインターネットもない。外の世界と比較することもなく、目の前に広がる世界が彼らにとってのすべてで、命が生まれることも死ぬことも自然なことで、安全なお産とか長く生きるとか早期発見とかの概念もなく暮らしていたのだろうか。

植民地化されたこで、他国との関係が築かれ、資本主義経済のなかに取り込まれていった。
その結果、国は発展し、学校教育が普及し、医療施設が増え、インフラが整備され、インターネットが普及した。お金をもっているひとと、貧しいひとがうまれ、学校に通える子どもと通えない子どもが現れ、英語が話せるひとは情報にアクセスできるが、英語の読み書きができないひとは情報へのアクセスも仕事を得ることも難しくなった。お金があるひとはインフラが整った地域で暮らし、貧しいひとは井戸やため池の水を汲みソーラーパネルでわずかな電力を蓄え、穴を掘っただけのトイレで用を足す。インターネットのおかげで他のひとの暮らしを覗くことができるようになって、比べることができるようになった。幸福の基準は目の前の世界だけだったのに、そうではなくなった。

だからその格差を埋めるために、国際機関やNGO、各国政府が支援を行っている。

でも様々な援助機関が介入しても、予算が不足していたり、寄付された資源をきちんと活用できていなかったり、知識が普及していなかったりする。

そもそも格差が生まれない社会だったらよかったんじゃないのかな。

そんな風に思ってしまう。
長く生きられなくても、病気になりやすくても、現金収入が少なくても、学ぶ機会が少なくても、格差がなければ、比較する対象がなければ、不幸ではなかったんじゃないのかな。

国が発展する過程で、援助機関は彼らの幸せの基準を歪めてしまってきたのかもしれない。

でももうすでに格差は生まれてしまっていて、その結果同じ国に暮らしているのに、住む場所や収入の差で、人としての尊厳や権利が守られていないひとがいることも事実だから、彼らを救うための手立てが必要なわけで…

中学生のとき、【地球のステージ】を観て国際協力の道に進みたいと思った。
みてみぬふりをしちゃいけないと思った。
遠く海の向こうで今、このときに起こっている悲しい出来事を知ってしまった以上、目を背けてはいけないと思った。

中学生で思春期真っただ中の私はずっと考えていた。
どうして私は日本人としてこの両親のもとに生まれてきたんだろう。
同じ時間に別の国で別の両親のもとに生まれていたら、毎日ゴミ山に通って、学校に行けず、ゴミを売ってその日の食糧を確保して、兄弟の面倒を見る。そんな生活をしていたのだろうか。

日本人として、日本に生まれ、家族がいて、学校に通えて、体が健康で。
これは私がなにか努力してつかみ取った幸運ではなくて、たまたま運がよかっただけなんだろうな。
そして、こうして世界のことを見聞きする機会があって、たまたま興味を持った。
だからきっと私には世界のどこかの悲しみや苦しみのために働く使命があるんだろうな。
国際協力に携わること、そして自分が日本人としてこの時代にこの場所に生まれた意味をずっとずっと考え続けた私が出した結論だった。
こうして言葉にできるようになったのは高校3年生になってからだった。

それからずっと興味が薄れることはなかったし、国際協力のことを学ぶ時間がなにより楽しかった。時間もお金も惜しいと思うことはなかったし、新しい知見を得るたびにこことがときめいた。

だからここまで突き進んできた。
仕事をやめてひとりザンビアにやってきた。

でも私にできることってなんなんだろう。
でも本当に人々の幸せのために必要なものってなんなんだろう。

ザンビアのことを知れば知るほどわからなくなる。
国際協力ってなんなんだ、ほんとうに。

“ボランティアは風俗と同じ“
そんな言葉を目にした。
ボランティアは単なる自己満足に過ぎないし、だれのためにもならないから風俗と同列だということらしい。
どこかのだれかの過激な意見に真向から反論するつもりもないし、そのひとがどれだけの大金を世界のために寄付しているのかも知らない。でもボランティアしたことないひとにボランティアを批判する資格はないし、自己満足と快楽を一緒にされるのは違うし、ボランティアを受け入れてくれてる彼らにも失礼だと思う。だから思い出すたびに腹が立つ。
確かに自己満足を求めた行為かもしれないし、実際無力感でいっぱいだし、自分のやっていることになにひとつ自信はもてないし、費用対効果も低い。
でも実際にザンビアに来て、こうして超草の根の現場でボランティア活動してなかったら、ザンビアのこととか、アフリカのこととか、国際協力のこととか、ワード6ページ分も考えたり発信したりすることはなかった。

単なる自己満足だけだったら、こんなに迷ったり悩んだりしないんだよね。
自分の評価とか、実績とか、経験とか、そういうものだけ追求してたら楽かもしれないし、楽しいかもしれない。でも、現場で直接ザンビアの人々とともに暮らしたり、働いたりしているとそうはいかない。国際協力のことを勉強するのが楽しかったのは、実際に現場で暮らす人々のことを知らなかったから、一方的で俯瞰的だったから。

大学生のころに国際協力界隈で活発に活動していた同世代のひとたちが大人になってどんどん結婚したり出産したりしていって、どうして現場にでないの?いいの?って思ってた。でも国際協力って、遠くの世界のだれかの幸せに力添えしたいと思って関わり始めるのに、知れば知るほど、学べば学ぶほどよくわからなくなってきて、まず自分が幸せになろう、って思うんだろうな。

どの道を進めば答えのありかにたどり着けるのかわからなくて、もうすでに逃げ出してしまいたいけれど、2年間はここで暮らすって決めたから、2年間は現場に身を置くって決めたから。

これが留学とかインターンとか、自分ひとりで乗り込んでいたら途中で投げ出してしまっていたかもしれない。

2年後、大好きな同期とおいしい食事を囲んで、おいしいお酒を飲みながら自分たちを褒めあいたい。
本当に今はただそれだけ。

一つ一つの問いが難しすぎて、一人では向き合えきれないことばかり。
でも期限は2年間。きっとこの2年では答えにたどりつけない問いばかりだけど、歩みを止めずに進み続けるしかないんだろうな。

しっかり現場と向き合うこと。
ザンビアのことをよく知ること。
たくさん揺れながらたくさん学ぶこと。

なにもできなくても、なにも成果をだせなくても、せめてこれだけはやめないでおこう。
そして2年間逃げずにここで暮らそう。

こうして現場に来ることができているのは、学ぶ機会があって、考える時間があって、体が健康で、家族の理解があって、応援してくれるひとがいて、支えてくれるひとがいて、世界中に一緒にもがきながら必死に進もうとしてる同志がいて、そのおかげ。ひとつでも欠けたたら、チャンスに巡りあうことはできなかった。

明日からは首都滞在。
ニャンジャ語の単語帳を買って、子どもの成長と発達支援プログラムのための教材を作る。
そして同期と集まって、語って、飲んで食べて、「モーシ・オワ・トウーニャ」の滝に遊びにいく。

みんなにビクトリアフォールズは、本当は「モーシ・オワ・トウーニャ」の滝っていうんだよって薀蓄自慢しよう

ザンビアってどこ?って言ってたひとが、テレビや新聞や本でザンビアって見たり聞いたりしたとき「ミナが住んでる国じゃん!」って興味をもってくれたら少し嬉しい。ついでに、そういえばアフリカのことなにも知らないな、って気付いてくれたら嬉しい。そのついでに、アフリカってどんな歴史があって、どんな人が住んでいて、どんなところなんだろ、って興味を持って知ろうとしてくれたらもっと嬉しい。

人が親切で~ダンスが上手くて~陽気で~とかそんな上辺の印象を語るんじゃなくて、ちゃんとザンビアのこと、アフリカのこと語れるようになって日本に帰ろう。

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み。

青年海外協力隊員としてアフリカで暮らす未熟な看護師の日々の記録。
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