科学の用語を覚えることと科学することは違う
1.学びにおける手段の目的化
最近、時の人となっている千代田区立麹町中学の工藤勇一校長。よく、「手段や目的が形骸化しながら継続されていることが多い」という趣旨の発言をされています。
以下は、その一つです。
仮に「自ら考える力を育成する」ことを目標に据え、そのために「学力を身につけさせる」という手段を掲げているとします。そこで子どもたちの学力がなかなか上がらないので、つまずいた問題を徹底的に繰り返させることにしたとしましょう。このケースにおいて、「つまずいた問題を徹底的に繰り返させる」という手段は、もはや「自ら考える力を育成する」という目標とは相反することをしていますよね。教育の本質を捉えていないがゆえに、こうしたことがよく起きているのではないでしょうか。
あスコラ Vol.12 『これからの教育の話をしよう!』
https://berd.benesse.jp/special/asukora/asukora_12.php
確かに、日本の教育では、上記のようなことがよく起きている印象がある。本来、企画した人間には確かな目標があったはずなのに、いつの間にかその背景やねらいがぬけおちてしまい、手段が目的化してしまう。
日本で「理科」というと、「科学の用語を覚えること」になっているような印象がある。それは必要なことではあるが、いつしか、テストで確かめられる用語をどれくらいたくさん覚えられるかが目的となってしまい、それ自体が理科だということになってしまっている印象がある。
2.夏休みの自由研究はなぜつまらない?
夏休みの自由研究も手段の目的化の最たるものだと思う。子どもたちが「自由研究がめんどくさい」というけど、それはとても残念なことだ。対象は自然科学分野のテーマでも社会科学のテーマでもよいが、自分が「不思議だな」と思うこと、「本当かな?」と思うこと、興味がわいた事を調べて、実験して、確かめるという活動がつまらないはずがない。
ましてや、ドリルをやるより、自由研究の方が本来よっぽど楽しいはず。本来楽しいことであるはずの科学することがつまらなくなってしまっているのは、日本の子どもたちが、研究するということが何なのか学べていないからだろう。
Twitterで「Elementary Science Fair Planning Guide」という資料があることを知った。
Elementary Science Fair Planning Guide
https://www.spps.org/cms/lib/MN01910242/Centricity/Domain/3019/science_fair_planning_guide.pdf
Saint Paul Public Schools(https://www.spps.org/spps)のホームページから入手できる資料だが、とても良い資料だ。この資料の最初に書かれているのは「A Model, Display or Collection ← BORING!!!!! DON’T DO THIS……」だ。
例えば、太陽系ってこんなふうにできているとか、恐竜にはこんな種類がいるとか、そういうことを調べたけど、自分では何も実験していないというのは、つまらないからやめようね!と書いてある。
日本で、調べ学習というのがあるけど、これは過去に誰かが研究して判明した内容を、文献にあたってまとめるというもの。講義型の一斉授業寄りはマシかも知れないが、活動としては退屈だ。
そうではなくて、自分でこうなんじゃないか? なぜこうなっているのか? と思ったことを、きちんと仮説立てて、実験しましょうということが上記の資料には書いてある。しかも、その具体的な方法論まで丁寧に。
日本の児童・生徒も、こういったことを学んだ上で自由研究を課されたら、夏休みが来るのが楽しみになるかもしれませんね。
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