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アイドリッシュセブンに見る『人間の熱』

Twitterを見ているときにこんな文章を見たことはないだろうか。

「アイナナは現実!」

アイナナ、とは言うまでもなく「アイドリッシュセブン」というコンテンツの略称である。

女性向けアイドル音楽・AVGとして2015年にスタートしたスマートフォン向けゲームアプリだ。昨今ゲームというものが据え置き機から携帯、スマートフォンへと移行されている真っただ中、アイドリッシュセブンは配信開始した。

ここで内容について語るのは情緒がないので割愛とさせていただくが、一言で言えばこれは「人間」の物語である。こういうゲームで「~である」って言いきっちゃうのもちょっと、と思ってしまうのだが、このゲームをプレイしてきて、まず最初に思うのは、良くも悪くもまあこんなに「人間」を感じる作品が作れたものだ、ということだ。人間の理想や願い、希望を詰め込んだアイドル、その裏側に潜む妬みや嫉妬、果ては蠢く策略――。人間の欲望と希望の果てに彼らはそれでも必死に輝こうとする。ハリボテの星であろうとする彼らの姿にユーザーは涙し、傷つき、それでもただ、懸命に背中を押す。今を生きている彼らが少しでも幸せになってほしいと祈る。その祈りの果てに、アイドル達はほんのわずかの希望になる。きっと普段の生活であれば見過ごしてしまう、見過ごしてしまいたくなるような苦々しい言葉であっても、差し込まれる言葉にハッとさせられたことは一度や二度ではない。

丁度1年前の2018年には待望のアニメ化を果たした。ここで初めて彼らを知った方も多いのではないだろうか。(ちなみに2期も決定している。)いやあすごい。本当にすごいよアイドリッシュセブン。このアニメなのだが、きちんとアプリゲーム通りの内容を踏まえていて、むしろアプリゲ―のテキストだけではカバーしきれなかった動きを表現している。「ここの場面はこういう動きだったのか!」とそれまで原作をプレイしていたユーザーに対しても新しい発見を与えてくれた。

こういった端々で、ユーザーは制作陣、関係者の「アイナナ愛」を目の当たりにしてきた。二次元アイドルというジャンルの中で、アイナナが特筆されるとしたらジャンルから感じられる「人間らしさ」であるだろう。

人間らしさ、とはなんなのか。アイドリッシュセブンから感じられる人間の熱、とはなにか。拙文ではあるが、自分なりの考えをまとめたいと思う。

※なお、この記事は他のジャンル(特に二次元アイドル)と比較するものではなく、ただ『アイドリッシュセブンから感じられる人間の熱』というものにフォーカスしたものであることをご承知いただければ幸いに思う。


これは2018年7月に行われたアイドリッシュセブン1stLIVE「Road To Infinity」のBlu-ray/DVDのジャケット。とりわけ注目してほしいのLimitedEditionのジャケット。12人のアイドル達が煌びやかな衣装で、恰好で笑いかけている。

こちらは1stLIVE直後にツイートされたキャスト陣営の写真。二つの画像をよくよくみてみると、キャストとキャラクター陣の立ち位置が全く一緒、ポーズも限りなく同じなのである。

どちらの写真が先だったのか、という議論はあるにせよ、時系列を素直に受け取るのであれば、写真をもとにイラストが起こされたという可能性が高い。どちらがどちらのもとになったか、ということはさておき、何が言いたいかというと、二次元での表現であるイラストと、キャストの写真という三次元が同じような配列、表情をする、という意味合いについてだ。

さらにもう一個。こちらは作中でアイドリッシュセブンのライバルグループであるTRIGGERのMV制作に関するツイート。制作会社は「TRIGGER」。「TRIGGERがTRIGGERのMVを作る」という洒落のきいたニュースだ。裏話として、制作社のTRIGGERへ「TRIGGERのMVを作りませんか」というオファーがあったとか。

これらは互いの意思の疎通、もしくはどちらに「オマージュをしよう」「ちょっと洒落を利かせよう」という意図がなければこういった偶然は起こりえない。そこには機械的な作業ではなく『人間が行った仕事の手垢』というものが見えてくる。ただ単調な作業であっても、きっとジャケットイラストは作られるし、MVも作成される。だがそこに「人間が行った」という証が見られる、というのがアイドリッシュセブンというコンテンツの持つ特徴であり、魅力である。


人間の熱を感じる、ということ

職業柄、「人の顔の見える関係」というものを大事にしている。電話越しのやり取りだけではなく、直接対面して話をすることはアナログな考えではあるが、直接対面することで相手が人間であることを認識する。また、直接会うという時間も効率もかかる行為を行ってくださることに敬意と感謝を覚える。そうすると、円滑に仕事を進められる、という理由だ。

ここで言う「顔が見える」とは、コンテンツを媒介にして作り手の存在が見える、ということだ。例えば同人誌におけるあとがき。ああいった人間が見える一文は、いまや「無駄なもの」として削られてしまいがちだが、本に温かみを感じられるのはそういった場所ではないかと考える。

効率化、シンプルイズベスト、スリム化。様々な言葉で、コンテンツから「人間」という手垢がなくなっている中で、アイドリッシュセブンでは制作物のそれぞれから「人間」を感じることができる。前述したようなものもそうであるし、公式ツイッターでの告知を「7」のつく日に行うことであったり、作中のとある一曲に暗号を仕込んだり(これはほんとにすごかったのでみんなぜひSakuraMessage聞いてね)、こんな手間をかけてどうすんの??とこちらが心配になるほどの凝り具合だ。

こういったものをみるたび、本当にコンテンツの運営が徹底してアイドリッシュセブンというコンテンツに熱を帯びさせている、ということを感じさせられる。

普通に発表したってきっと情報は情報だし、暗号などなくても曲は曲だし、と思ってしまうけれど、細かな一つ一つの情報の出し方や制作物のどれにも人の手が加わったということがわかる。いや、どんなものでも製作者はいるのだけど、このジャンルは特にそれがひしひしと伝わってくる。

そうしてユーザーもまた、制作陣や運営の意図を理解して、作られたものを享受する。温かみどころではない、熱を持った人間同士のやりとりだ。

マイケル・A・オズボーンの「雇用の未来」という論文において、「将来的になくなる職業」というものが発表された。人間の仕事の大半はAIにとってかわられ、ほとんどの仕事がなくなってしまうという。そのなかでも残るとされている職業は、芸術性の問われる作家やデザイナー、また小学校教員の情緒教育を行う職業であり、そのほかのほとんどは機械がとってかわるようになる。そういった未来が予見されているという。オズボーン曰く、これから先は今まで通りではなく「人間」でなければなしえない価値を創造していく必要がある、と。

「人間でなければなしえない」もの、とは何か。ボーカロイドのようなシステムが拡大すれば声優の仕事はなくなってしまうのではないか、と時折思うことがある。そうであれば、声優の仕事は人間独自のものではなくなってしまう。じゃあ人間でなければなしえないものってなにか?それは、一つのコンテンツからいかに、その熱が感じられるかどうかではないかと思っている。キャラクターに命を吹き込むこと、セリフを言う、演じる、だけではなくそのキャラクターに熱を持たせ現実感を持たせること、演技だけではない部分でキャラクターを表現すること、になってくる。それは設定されたプログラムでは為しえない、アナログな部分だ。「どうすれば彼らを身近に感じられるか?」を考える職人的な部分なのだろう。

以前わたしは、ライブの感想を書いた時にはてなブログでこういったことを書いていた。

コンテンツである以上お金は動いている。そんなの重々わかっている。だけど、ゲームである以上、娯楽である以上、「楽しんでいってほしい」「自分たちはこんなに楽しいものを作っている」という作り手の意図が感じられるかどうか、というのはお金を払ううえですごく重要なことだと思っている。
作り手が楽しんで作っているものは、見ていてやっぱり楽しい。ここをこうしよう、ここをこうしてみよう、っていうのはきっと私たちのためもあるんだろうけど、大半は作り手が楽しいから、こうしてみたらきっと楽しいなあ、があるから応援できるのだと思う。
とどのつまり、こういうことって「好き」とか「こうしたい」がなければ変化しないことで。理想があって、課題があって、それをどうするか?って制作陣もキャストもみんな一丸となって考えた結果が反映されてる。シンプルだけど、みんながみんな同じ方向を向いてなければ「アイドリッシュセブン」の実在感にはつながってなかったんじゃないか、と思うわけです。

引用:

https://yama6taishi.hatenablog.com/entry/2018/07/14/102052

効率化によってもたらされたものは大きい。たくさんのコンテンツができては消えていく。二次元ジャンルは今や「利益」という二文字が透けて見えることが多い。ただ、その一方で失われてならないことが当然ある。それが、今も昔も、何かを作っているのは人間である、ということ。そうして、その人間の仕事への敬意を払うために、金銭のやりとりがある。それがオタク文化であり、二次元ジャンルの発展だ。

例えをひとつ。テイルズオブベルセリア(これ本当に名作なのでやってください…同じような熱量を感じる作品。)

テイルズオブシリーズの据え置きでリリースされた最新作であるが作中にはこれまでの「テイルズオブ」シリーズのオマージュがたくさん登場する。ショップの名前が歴代登場キャラクターの苗字だったり、コレクターアイテムが歴代作品のアイテムでそれにまつわるエピソードがついていたり。話の流れには直接関係はないのだけど、作中にこういった「お遊び」が投下された際に、ユーザーは、おそらくこんな風に思うんじゃないだろうか。

「あっ、これ知ってる!えっ運営わかってる!」

ちょっとだけクスッと笑える。気付ける人しか気づかない小ネタじゃないですかこういうの。私はFFめちゃくちゃやってたけどアルティマニアの小ネタページをずっとずっと見ながら元ネタ探しとかしてた。(全然話違うけど、思えばFF9のアルティマニア冒頭には「攻略本はきっとなくなっていく」みたいなこと書かれてたな)

こういうちょっとした遊び心を人は「粋」と呼ぶのだと思う。瀟洒で洒落のある遊び心。そこにはデータではなく作り手の「意図」を感じることができる。わかる人だけわかればいいので本当にさりげないことだし、作り手はそれを表立っていうわけではない。知らなければ知らないでいい。だってそれは作り手の「遊び心」なのだから。

そうしてそれに気付いた瞬間、「やられた!」と額を打つ。こんなことを隠していたなんて!と作り手の顔が見える。

すごく昭和的で、アナログな考えだけど、人間の源流、心が動くのはこういった瞬間ではないだろうか。感覚的なもので申し訳ないのだけど、こういうやり取りを持って生まれたものは「熱」を帯びていて、それを感じた瞬間、ユーザーは制作物を通して作り手に価値と敬意を払うのだ。


熱と二次元コンテンツ

ではその熱があるからなんだというのか。人のぬくもり、人の顔が見えることの何がいいのか。

アイドリッシュセブンの作り手の顔が見えること、というのは文字通り「顔出し」という意味だけではない。彼らの遊び心、愛情をもってコンテンツに向き合う姿勢を、ユーザーが感じられることだ。

例えば「手間暇をかけて作った家庭料理」と「コンビニで買ってきたお弁当」があったとする。どちらが安くて手軽かと言われると、当然後者だ。味だってもしかしたら、コンビニ弁当のほうがおいしいかもしれない。効率性を考えるなら、コンビニで十分という人だっているだろう。だけどこの世から「家庭料理」が消えることはない。効率的ではないし、なんなら負担になる作業だ。けれど、形は変わってもそれは残り続けている。「ちょっと失敗しちゃった」って言いながら作ってもらったいびつなハンバーグが食卓に並ぶ。絶対味もコストも、外で食べた方がおいしいに決まってる。だけど、それを食べた時に「大丈夫だよ、おいしいよ」って言う。そこにあるのは、「食事」というその行為だけではなく、作ってくれた人への敬意が払われる。要するに人と人のコミュニケーションが、ハンバーグのいびつさや味を変化させるのだ。人から作ってもらうものはおいしい。風邪の時に食べた鍋焼きうどんが、どんな料亭の上品なにゅうめんよりもおいしくて、ごちそうなのは、「その人のためを思って作った」という人の顔が見えるからだろう。

コンテンツでも同じことが言える。完璧なものはいくらでも作り出せる。お金を払う、集める、稼ぐ。それだけならきっといろんな方法がある。

だけど、そこに人間の熱が感じられるか、と問われれば答えはNoだ。人間、特にこういったジャンルにハマったり触れたりする人たちは、私を含めてとても「熱」というものに敏い。どれだけ完璧なものであろうと、どれだけ理想のものであろうと、そこに熱と愛情が感じられなければ、価値を見出すことができなければ金を落とすことはない。twitterやネットの発達は、企業や運営が近くに感じることができるようになった一方、その裏側に「人間」が見えることで「利益」が見えるようになってしまう。

だが、どんなコンテンツにも「人間がやる意味」というのが確かにある。機械ではなく人間の声が出す深みや、そこに乗せられた感情。人が作り上げたものに対するリスペクト。そういったアナログで、野暮ったいと思われてしまいそうな感情。アイドリッシュセブン、というコンテンツはそういった、忘れてしまいがちな「人間の熱」が押し出されている。何に価値を感じるのかは人それぞれだけど、少なくともアイドリッシュセブンがここまで大きなコンテンツになったのには、ただの事業モデル、ただのメディアミックスがあったから、というだけではなく、そこに関わる人々の熱、人間としての細かな仕事、コンテンツに敬意を表した恐ろしいほどにこまごまとしたこだわりがあってこそではないか。

そして、楽しむ側であるユーザーも同じような熱量で彼らの想いを受け取っている。このバトンの受け渡しが、アイドリッシュセブンという夢を大きくしているように思う。

こんな風に作られた作品だからこそ、作品そのものから「人間」を感じることができるのだろう。「人が紡ぐ人の物語」だから、私たちはアイドリッシュセブンのキャラクターを、物語を、それにかかわる人々を愛さずにはいられない。希望と、幸せを願わずにはいられない。


「アイドリッシュセブン」は今年の7月にふたたびステージに立つ。


「REUNION」――再会、再結集。再び集まること。

ライブはただのお祭りではない。作中で「デートのようなものだよ」と言われる通り、彼らと出会える唯一無二の瞬間なのだ。再び、再度、アイドリッシュセブンたちと束の間の逢瀬を果たす、ということだ。だからこそ、この言葉を、2ndLIVEのタイトルとして持ってきたことに最大の愛情と、熱量を感じずにはいられない。