『アイドリッシュセブン、しんどい』ってなんなのだろう

※この記事にはアプリゲーム「アイドリッシュセブン」4部5/29時点での配信分の内容を含みます。ネタバレを気にされる方はご遠慮ください。


アイドリッシュセブンのストーリーを追うたびに目にする文言のなかで、一番多いのは「しんどい」ではないだろうか。少なくともわたしのtwitterのTLのなかではこの「しんどい」という単語は頻出単語である。

「ええ?アイドルゲームでしょ?笑」とアイドリッシュセブンを知らない友人に言われた時に、わたしはいつも「そうなんだけど、あれはRPGみたいなしんどさがあるんだよね…」というトンチンカンな回答をしてしまう。「まあバンダイナムコだからさ…(?)」という言葉で締めくくるのも本当によくわからない。でもしんどい。RPGをやってるときにかんじるしんどさがあるというのは自分としてはしっくりくる表現なのだ。

では「しんどい」というのはいったいどんな状態を指すのか。アイドリッシュセブンのストーリーをクローズアップしてみれば、これは単純な疲労、というよりも「心に何かとげのようなものが突き刺さって、ずっと抜けないままでいる」「常にすり鉢の中にいてすりこぎで神経を擦り続けられる」みたいな状況なのかもしれない。「しんどい」というのはもはやアイドリッシュセブン界隈においては快感の一種なのでは、とさえ思うほど、ユーザーたちの間には「しんどい」が浸透している。

イケメンアイドルリズムゲームのアイドリッシュセブンがしんどい http://collectone.jp/blog/2017/05/406/

こんな記事もあるくらい。たぶんみんなこんな思いしてる気がする。わたしもこのジャンルを知ってからこんなに「しんどい」を多用している。

「しんどい」の原因とは何なのか

いろいろと理由はあるが、個人的には以下の点が突出しているように思う。

❶ストーリー、構成がしんどい ❷キャラクターがしんどい ❸ユーザーに対するメッセージがしんどい


こんな風に分類される気がする。もっとほかにもあるかもしれないけれど、とりあえずわたしが考える限りではこの三つかな、という印象だ。

幼少時代からゲームとともに生きてきたわたしとしては、この「アイドリッシュセブンしんどい」の感覚は、体験談からすればFF7やTOAの胸を貫くようなしんどさ、みたいなものと似ているような気がする。愛を込めて作られたキャラクターが物語というクライシスの中で失われて、再構成されることもそうであるし、その時の社会や人間の在り方を根本として問うような言葉に創作物であるからこそ考え込んでしまって「しんどく」なってしまう。

❶ストーリー、構成がしんどい

一番しんどいのはストーリーだろう。「アイナナはストーリーがいい」と言われるそのシナリオは本当に素晴らしいものであると思う。大筋を言えばサクセスストーリー、と思われてしまうのだが、アイナナが描き出すのは「成功の過程」ではなく「人間」だ。人間を描くにあたっては「その行動変容を起こすに至ったエピソード」は不可欠であり、そこをいかにドラマチックかつ、経時的に描けるか、ということが大事になる。

エピソード、とはいうけれど、人間はそうそう簡単に変わらない。現実世界で失敗を一つしたところでまた次頑張ろう、と決意して、すぐに性格は変えられない。けれど、変えるための行動変容を起こすことはできる。長期的に見て「なんか変わったね」と言われて初めて「性格が変わった」と言われるのではないか。

だが、フィクション、創作物であればそれは別だ。長い時間をかけて変化を感じるわけではないからどうしても「時間内で変化がわかるようなドラマチックな演出」が必要になってくる。物語である以上、出来事・キャラクターの変化・出来事・変化…という流れになる。2時間の映画が「展開が早い」と感じられるのはどうしても時間という制約があるなかで物語として成立させる以上、そういったエピソードを詰め込む必要性があるからだろう。

(ただしこういったアプリゲームのようにアップデートが繰り返される媒体であれば、自然とユーザー(読み手)の方も長い時間をかけてキャラクターを見ていくことになる。アイドリッシュセブンはリリースから4年という時間が経過しており、その間見守ってきたのであれば何かしらの「リアリティのある微小な変化」というものも当然あるのだけど、それはまた別の話)

アイナナの「しんどさ」はこのエピソードのどぎつさにある。キャラクターの境遇・家庭環境、アイドルという世界、更には渦巻く陰謀や各々の思惑、果ては国一つを揺るがすような事態まで発展する。「日常生活でそれはありえない」と思えることがエピソードとして起こりえるのは、アイドリッシュセブンがフィクションであるからだし、そこによってキャラクターの変化をもたらすためだろう。

しかしこういった「突飛なエピソード」というのは現代日本をテーマにしている作品であるとあまりにも現実離れしすぎて「ちょっとよくわかりませんね」と言われてしまうと、深く感情に突き刺さることはない。共感ができないことにユーザーはそこまで思い入れない。しかし、アイドリッシュセブンは、『アイドル』を題材にしている。

暴論かもしれないけれど、アイドルとして「そういう仕事が出てきた」という設定であれば、比較的現実離れしたエピソードも作りやすい。突飛すぎるエピソードであってもそれを主軸におきすぎなければ「これはフィクションだから気楽にみられる」というユーザー側の了解を得られやすい。

逆に『アイドル』という光の部分ではなく『ファン』という視点での声を交えることによって、アイドリッシュセブンのストーリーはぐっと現実感を増す。自分たちの声に刺さる要素があれば「共感」ができることで、目の前の出来事が自分たちの声が反映されているような錯覚に陥る。

『フィクション作品としてのおもしろさ』『ユーザーが了解しうる範囲の突飛なエピソード』と『ファンとして共感性の高い心理』というものを巧みに織り交ぜて、アイドリッシュセブンのストーリーは編み上げられている。だからこそ、フィクションとわかっていながらも身近な問題として共感→内容がしんどい、という心理につながるのではないか。

❷キャラクターがしんどい

ではそのエピソードだけがしんどいのか、といわれるとそんなことはない。物語、作品は「キャラクター」がいて「エピソード」がある。物語は何かが起こって何かが変化する、の繰り返しであり、その変化というのは、キャラクターの性格や境遇(いわゆる設定)に起因するところが大きい。

アイドリッシュセブンのストーリーでは、今「アイドリッシュセブンのメンバーの脱退」という出来事が起こっているのだが、その一つの事象に対して、さまざまな反応・変化がみられている。それまでがむしゃらを避けていたキャラクターが仲間のために頼りたくなかった身内を頼ったり、脱退するメンバー自身が大好きなグループを離れることを心に決めてかけていたり、とそういった変化が起こっている。また、「TRIGGERのオーディション」というエピソードでは3部では先が見えない闇の中にいた彼らが必死に光をつかもうとしている。

こういったエピソードのしんどさももちろんのこと、そこにかかわるキャラクターの境遇や、環境、積み重ねてきたものを考えるとよりエピソードの一つ一つに重みが出てくる。たかがそんなことで、と思うようなセリフであってもキャラクターの背景を知っていることでより強く、さまざまな感慨を覚えることができる。

アイドリッシュセブンのメインキャラクターにまつわる単語を列挙してみると、結構なインパクトのある単語が出てくる。

兄弟間のコンプレックス、芸能人の隠し子、内縁の子、児童養護施設、親の死別、アルコール依存、家庭内暴力、毒親、病弱で持病がある、生き別れの兄弟、養子として引き取られた、両親の離婚、片親、親からの支配、死別、お家騒動、親からの否定…などなどなど。書き連ねてみるとかなりえぐい言葉である。これ本当にアイドルゲーム?なんていうかこれは何の教科書なのか?と思ってしまう単語ばかりだ。もちろんこれらの単語がそのまま出てくるわけではないが、こういった要素がキャラクターにぎゅっぎゅっと詰め込まれているのは違いない。

こういった境遇、成育歴、家庭環境自体がすでにしんどいのであるが、それらを背景として培われたキャラクターたちの性格や認知のクセといったものがアイドリッシュセブンのキャラクターは顕著であり、環境に紐づけられている。

育ってきた環境が本人に合っているかどうかはもはや確率ではありますが、同じ体験をしても響く人と響かない人がいるように、体験を得られるだけ人の行動や考え方に何かしらの影響を与えることは、間違いないでしょう。
このリアルに即した考え方でキャラクターを育て、過去から現在の行動や発言を繋いでいくと、一貫性と納得感が生まれ、「解釈」の余地を狭めることができます。 引用:めんどくさオタクをオトした、アイドリッシュセブンのキャラクターの魅力とは https://note.mu/66rrrrkk/n/ndf1fca0cbd0e

このあたりはこの考えが結構しっくりくるのでそのまま引用させていただく。(このnoteの記事自体めちゃくちゃわかる~~~!!となるのでぜひご覧ください)

キャラクター自体の設定のしんどさもそうなのだけど、各個人が抱えた課題がエピソードを通じて変化すること、「そのキャラクターがそのエピソードにおいて発する言葉の重さ」ということをユーザーが関連付けることにより、このしんどさは生まれているのだろう。キャラクターのしんどさというのはユーザーの関連付けによるものも大きいのだけど、その変化をきちんとわかるような明示の仕方をしているからこそ、この「しんどさ」により深みが与えられる。

❸ユーザーに対するメッセージがしんどい

言ってしまえばどんな作品だってメッセージを持っている。けれどとりわけアイドリッシュセブンから発せられるメッセージがファンに突き刺さるのはそれがメインのアイドルキャラクターたちではなく「周囲」から発せられるからだ。

アイドリッシュセブンにはボイスのついていない、グラフィックもないモブと呼ばれるファンや関係者が多数登場する。彼らはストーリー中にたびたび出てきては「アイドルを見ている立場」から発言をする。そこにあるのは、様々なファンの心理だ。その言葉に自分の気持ちを刺された方も多いだろう。今回の配信分に含まれていた中で個人的にずんときたのは「どこかに安心できるアイドルいないかなあ」「アイドリッシュセブンがこの隙にトップに」という一言だ。スキャンダル続きの人気アイドルグループを見ているファンの心理など勝手なもので、当人たちの言葉など知らずに好き勝手に言ってくれる。それはまさにファンであり、ユーザーであるわたしたちが普段発している言葉に酷似している。

作品を通じて、自分たちのこの行いを問いかけられているような感覚を覚える。キャラクターたちからの言葉ではなく、一般大衆の意見に同意をしてしまうのは、わたしたちもまたアイドリッシュセブンというコンテンツのファンであるからだ。

更に、今回の配信分ではセトから衝撃的な一言を告げられる。

セトに対する「自分が決して傷つかない安全な場所から夢を抱く人間の人生に干渉している」という指摘は、まさにアイドルのファンという姿勢と酷似している。また、月雲了は、彼は常にアイドルの真実を暴こうとし、自分に振り向いてほしいと願っている。九条鷹匡は自身の理想たるアイドルを作り上げ崇拝することを至上の喜びとしている。

それぞれの大人がそれぞれの感情でアイドルたちを見つめているが、これはどことなくファンとしての姿勢と似ているように感じる。

セトタイプ:無名時代から育てあげることに喜びを覚える
鷹匡タイプ:自分の理想を盲目的に愛し続ける。単推し同担拒否。
月雲タイプ:認知されたい。自分が1番相手のことを知っていたい
宗助タイプ:マーケティング目線でアイドルを見る、商品価値
音晴タイプ:基本的には見守って一歩引いてみている、親目線

どれがいいかとか、どれが悪いかとかではない。ただ、アイドリッシュセブンに含まれる「しんどさ」というのは、メインキャラクター以外の在り方が「ファン」の比喩が入っているのではないか。そう感じさせられる描写は端々にちりばめられている。

こういったアイドルを取り巻く人間の在り方というものはファンの在り方を皮肉ったものであるように思えてならない。彼らの言動に眉を顰めつつも、「アイドルを見ている立場」の人間の在り方に知らず知らずのうちに自分たちの心を重ねてしまうことで、アイドルとファンの関係性というか、客観的な評価を受けることで普段は感じえない「しんどさ」を感じているように思う。


「しんどい」ってなんなんだろう ――アイドリッシュセブンは自分を映す鏡

さまざま議論はあるのだと思うけれど、個人的にはこの「しんどい」というのは冒頭でも述べたように「自分の感情が大きく揺さぶられること」ととらえている。言ってしまえば動揺というところだろうか。この動揺というのは、人間のそれぞれの体験に紐づくところが大きいし、しんどい、と思う基準は人それぞれであるとおもう。

❶で示した「しんどさ」は「ストーリー構成・ギミックのしんどさ」であり、これは外側の部分にあたる。いわゆる予想外の展開という部分にあたる。話の内容如何というよりも作り方によるものが大きい。逆に❷の「しんどさ」は、「愛しいわが子を谷底に落とされるしんどさ」だろう。成長を見守るしかできないもどかしさ、推しが必死になっている姿に胸がずくずくと痛んでしまう。

そうして、❸の「しんどさ」は、「我々が自分自身と向き合うしんどさ」であろう。こういったコンテンツに触れる以上、多かれ少なかれ自分自身のファンとしての姿勢がある。それを作品に触れながらにして問われる機会はそう多くはない。というか大人になってから自分自身と向き合う機会自体、そう多くはない。ふいに提示される言葉の中でひっかかるものがあれば、おそらくそれは自分自身が見ないようにしてきた自身の姿勢を投影したものなのだろう。アイドリッシュセブンはまさにファンの心情を映し出す鏡にも似ている。更新のたびにわたしたちがアイドリッシュセブンしんどい、と唱えるのは「みたくなかった」「知っていたけど見ないふりをしていた」場所に柔らかく突き刺さり、常にわたしたちを「しんどい」状態に置くと知っているからなのだ。

それでもわたしたちは彼らを求めずにはいられない。その続きを、傷つくとわかっていてもなお求めたくなるのは、「しんどさ」を受け入れて、「しんどい」と言いながらも進むことしかできないのが人間であることを知っているからだ。アイドリッシュセブンという作品は「しんどさ」があっても進むこと、輝くことをあきらめない。だからこそ、わたしたちもそうするのだ。