マイ・フェイバリットフーズ/食でたどる70年第4回「ヤマモモ」

私が生まれ、育ったのは淡路島の南端、鳴門海峡に近いところで、万屋のような店舗が2店舗しかないような、なかなかの田舎だった。小さな川が運んできた土砂が扇状地をつくっていたが、水田はわずかなもの。住民は半農半漁で暮らしを立て、戦後はどこかに勤めて収入を得たうえで、兼業で農業に従事する家が多かった。
子どもたちにしてみれば、山に海に、時には里山にと、自然の中で遊んでいた。せいぜい注意されたのは、農家が肥料を備蓄している野ツボに落ちないようにすることぐらい。いくら発酵が進んでいるとはいえ、その野ツボにはまり、しばらくは臭いが取れなくなる子どもはいた。
そうした自然の中で、子どもたちは、遊ぶ場所に不足しなかった。子どもの足でも苦労なく登れる小高い丘のような山があり、そのがけ地を掘り返すと、かつての海底だったので、アンモナイトの化石が現れたりする。その前に適当な気に上り、崖を滑り下りて、学校から帰った後の数時間はあっという間に過ぎていく。
困るのは、淡路島はおきな川や、湧き水が少なく、夢中で遊んでいると、どうしてものどが渇く。昔の田舎のことなので、水道などあるわけもない。そういう時、重宝したのが川べりに生えている「イタドリ」だった。私達は、そんな上品な名前ではなく、根っこのところを、少し力を入れると”ポン”と音がして折れるから「ネッポン」と呼びならわしていたが、意外に水分が豊富で皮をむいて食べると、結構のどの渇きが癒されたものだ。ときどき、野生化したサトウキビが混ざってい、そのかすかな甘味が疲れを取ってくれたものだ。

梅雨時のヤマモモに勝るものなし

しかし、山の中で遊んでいるときのおやつで、一番うれしかったのは、「ヤマモモ」だ。梅雨時に赤い実がなる、それを見つけたときのうれしさといったらなかった。映画の「鬼龍院花子の生涯」のなかで、興行師の親分宅に「ヤマモモ」を届ける水菓子屋が、土佐の「季節」の移り変わりを知らせる役回りとして登場するが、この「ヤマモモ」は盛りの「旬」が一瞬で、収穫した後も、すぐ傷んでしまうこともよく知られていた。
したがって、ヤマモモを見つけた時は、みんなちょっとした興奮状態になる。野球帽をかぶっている者は、それを脱いで木登りの上手な子どもに託し、ヤマモモを野球帽に入れて投げ落としてもらう。そうやって、収穫したヤマモモをみんなで食べのは、まさに至福の時だった。甘味と酸味が絶妙に溶けあった味わいは、ちょっと他の果物にはない。
ただ、このヤマモモの饗宴には、最後の難関が待ち受けている。それは白っぽい服でも着ていようものなら、体中が真っ赤になり、母親に大目玉を食らうことは確実なことだ。
そして、ヤマモモとの遭遇が幸せの極致だとすれば、思わぬ失敗をしたこともあった。それもあまりにも、おなかがすいてしまい、サツマイモ畑で、芋を掘り返し、生で食べたときのこと。蒸かしたり、焼いたりすると、あんなに甘くなって美味しいのだから、生でもそれなり食べられるだろうと、かぶりついたら、その渋いことといったらなかった。よその畑なので、その場で吐き出すわけにもいかず、しばらく行ってから草に中に吐き出したが、あの苦しかったこと。一緒にいた子どもたち全員しばらく言葉もなかった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?