街探シリーズ<11>仙川・つつじケ丘散歩

仙川は調布では最も新宿寄りになる。以前は京王線の各駅停車しか止まらなかったが、最近は快速や区間急行も止まるようになり、ずいぶん利便性が増した。それだけ同地区は開発投資が活性化しているエリアだ。
特に仙川駅南口は、桐朋学園を中心にした学園都市の雰意気もあり、隣接の世田谷区方向に歩くと、ゆっくり行っても30分もすれば成城学園になる。途中、お寺の一角を借りて営業しているカフェがあったり、ヤオコーの漢字名の「八百幸成城店」唯一出店していたり、神戸屋のカフェベーカリーが昔から、おしゃれなメニューを提供している。
仙川はおよそ20年ほど前から、再開発によって急速にあか抜けた街へ変身し、私も南口エリアには割と頻繁に訪れていた。とりわけ、京王ストアが駅ビルに移転し、京王ストア後にクイーンズ伊勢丹が入って以降、同社が急成長した時期があり、そのころはクイーンズ伊勢丹仙川店を定点観測するため、かなり頻繁に訪れていた。
しかし、その当時は仙川は南口の商業・飲食ゾーン中心の街であり、せいぜいマークしていたのは、大型ショッピングセンターの島忠ホームズまでだった。北口の甲州街道エリアには、いなげやの戦略店舗があったり、白百合女子大学があり、駅を挟んで二つの学園が立地する面白い街だなというぐらいの認識しかなかった。

武者小路実篤が住んだ街

それが今回、ふとした拍子に駅前の情報ボードを見ていたら「実篤公園」の案内が掲示されているのに気が付いた。武者小路実篤といえば、周知のように「白樺派」のリーダーの一人だ。昔から白樺派については、いい家のボンボンの集まりのようなイメージがあり、あまり興味をひかれたこともなかった。宮崎県で展開した「新しい村」運動も、どこか独りよがりという印象が強かった。
しかし、その時は時間もあるし、天気もいいから、ちょっと行ってみようかと思った。地図を見ると桐朋学園の裏に回り少し行ったあたりようだ。仙川の街からすぐ近くに見えたので、いつも歩く街中を通って実篤公園を目指した。途中、桐朋学園前で「一点一点手仕上げの店というポスターを掲示したクリーニング店を横目にしながら、しばらく歩くと、思わぬ近さで実篤公園にいてしまった。
武者小路実篤が、仙川の地に居を定めたのは、昭和30年70歳の時。かねて水の豊かな武蔵野に住宅を建てたいと考えていた実篤は、いま公園になっている地を、ひと眼見て気に入り、ついの棲家の地とした。事実、昭和50年に90歳で没するまで、実篤は同地で朝は文章を書いたり、絵を描き、午後には庭や池を散策して過ごした。
仙川外この地は、国分寺崖線のなかにあり、実篤公園入口から入ると、緩やかな勾配になっていることがわかる。したがって敷地面積は5000m2といわれているが、それ以上に広く感じる。また実篤が同地の購入を即決したもう一つの理由が、上の池、下の池の二つの池があり、満々と水をたたえている。特に国分寺崖線から湧き出す湧水を水源とする上の池は、透明度高く池のなかを泳ぐヤマメもくっきりと見える。
また、下の池横の湿地では、5月から10月にかけては、光を反射させることで、黄金色に光って見える藻類の「ヒカリモ』が見えることもある。
居住棟の前面にはテラスがあり、そこから仕事場や、疲れたときに休息するリビングを見ることが出来る。
そして、下の池を過ぎ、トンネルをくぐると、昭和60年実篤生誕100年を記念して、調布市が設置した「実篤記念館」があり、様々な業績がジャンル別に整理して展示されている。
今回は時間がなくなり、記念館には入らず、京王線のつつじヶ丘駅を目指した。記念館の場所は、国分寺崖線の谷底あたりにあり、崖線を上る感じで歩くと京王線の線路にぶつかる。
仙川からつつじヶ丘までの、たった一駅の散策だったが、武者小路実篤が70歳から90歳までの最晩年を過ごした地を間に挟むと、予想もしなかった深い時間が現れた。


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