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響けユーフォニアム1期8話、大吉山での一幕が、好きで、嫌いで、好きな理由


 響けユーフォニアムの象徴的なシーンを1つ挙げなさい、と面接官に尋ねられたら、私は1期第8話、大吉山での一幕を挙げるだろう。名場面は数多あれど、このシーンのインパクトに勝るものは無いように思える。
 青春の爽やかさ、感情の交差が綺麗すぎる作画で完璧に表現されていて、一言でまとめると、とてもエモい。そして、私はエモが大好きなので当然に大吉山での一幕は大好きな場面である。聖地巡礼に何度も赴くくらい思い出深い場所であり、思い入れのあるお話でもある。
 しかし、じゃあ本当に好きなだけなのか?と訊かれると手放しで頷けない自分もいる。むしろ、ユーフォを何回も見返す過程でこの場面を観るときは、エモと同時に苦いものを感じている自分もいる気がする。
 本論はその感覚を言語化するべく書き始めたものである。



 言語化するべく、とはいったものの、苦いものを感じる原因がどの辺りにあるのかについては、漠然とではあるが、理解している。
 それは高坂麗奈の言動だ。恐らく、私は高坂麗奈というキャラクターが苦手だ。
 才能があって、容姿に恵まれていて、曲がったことが嫌いで、努力を惜しまなくて、いつだって正しさの中にいる。
 そんな姿に、正しく生きることができない自分が糾弾されているように感じる。だから、高坂麗奈のことが苦手だ。


「本気で全国行けると思ってたの?」
 響けユーフォニアムは、久美子が麗奈に対してそんなセリフを口走るところから始まる。
 恐らく私も、口走りはしないだろうけれど、その場にいたら久美子と同じことを思うだろう「ちゃんと悔しがれる自分に酔ってるんだろうなぁ」なんて、少し冷めた目線で見てしまうかもしれない。
 つまり、少なくとも私の中で、響けユーフォニアムという作品は久美子への共感から始まった。麗奈に対しての反発と言い換えることができるかもしれない。

それらを踏まえた上で、大吉山での、久美子と麗奈の会話に着目したい。



麗奈「どっちが好き?さっきの神社とこっちの神社。
久美子「......
れ「私はこっちの方が好き。渋くて大人な感じがする。わかんない?
く「ねえ、こういうことよくするの?
れ「こういうことって?
く「いきなり山に登ったりとか。
れ「私を何だと思っているの?するわけないでしょ。
く「だよね。
れ「でもたまにこういうことしたくなるの。制服着て、学校行って、部活行って、家戻って、なんかたまにそういうの全部捨てて18切符でどっか旅立ちたくなる。
く「それは、ちょっとわかる気がする。
れ「これはその旅代わりみたいなもん。
中略
「私本当はさ、前から思っていたの。久美子と遊んでみたいなって。......久美子って、性格悪いでしょ?
「もしかしてそれ悪口?
「褒め言葉、中3のコンクールの時、『本気で全国行けると思ってたの?』って聴いたんだよ?性格悪いでしょ。
「いやあれは純粋に気になったから......てかやっぱりそれ悪口......
「違う。これは愛の告白。
「どう考えても違うでしょ。
「でも私、久美子のそういうところ気になってたの。前から。好きっていうか、親切でいい子な顔して、でも本当はどこか冷めていて、だからいい子ちゃんの皮、ペリペリってめくりたいなって。
「それはどういう......
「わかんないかな。私の愛が、
「高坂さん捻れてるよ......

頂上の夜景を前にして

「高坂さんはこれが見たかったの?
「見たかったっていうとちょっと違うけど、他人と違うことがしたかったの。
中略
「ねえ、お祭りの日に山に登るなんてバカなこと他の人たちはしないよね?
「うん。
「久美子なら分かってくれると思って。私興味ない子とは無理に仲良くなろうと思わない。誰かと同じで安心するなんて馬鹿げている。当たり前に出来上がっている人の流れに抵抗したいの。全部は難しいけど。でも分かるでしょ?そういう、意味不明な気持ち。
「うん。わかるよ......
「私、特別になりたいの。他の奴らと同じになりたくない。だから私はトランペットをやっている。特別になるために。
(吸い込まれそうだった。私は今この時なら命を落としても構わないと思った)
久美子「トランペットをやったら特別になれるの?
「なれる。もっと練習してもっと上手くなればもっと特別になれる。自分が特別だと思ってるだけの奴じゃない。本物の特別になる。



 エモい。エモくて、綺麗で、高校生だった時の感覚が蘇ってくるようで、痛々しくて、その痛々しさすらも青春で。
 私が感じる苦さは、その痛々しさに根付いている。それは、痛々しい言葉を堂々と放つことができる高坂麗奈の強さに対しての劣等感であったり、麗奈の言葉に共感を覚えるからこそ、突きつけられる自分の凡庸さであったり。
 そして何よりも、高坂麗奈の言葉を痛々しいと感じてしまうからこそ気づく。自分も「当たり前に出来上がっている人の流れ」の一員なのだと。自分は特別なんかでは決してなくて、「自分が特別だと思ってるだけの奴」で、いざ高坂麗奈のような特別を前にすると、普遍的な感覚で抵抗感を覚えてしまうような、そんな普通の人間なのだと。

 しかし、久美子はそんな麗奈に吸い込まれた。これを機に久美子は変わっていく。負けて悔し涙を流す麗奈を一歩引いたところから眺めるのではなく、失敗すれば「上手くなりたい」と叫ぶほどに。麗奈と同じ温度の涙を流しながら。

 だから、この瞬間に、これだけ美しい場面の最中に、響けユーフォニアムを見始めた当初の自分は投げ捨てられるのだ。久美子への共感と麗奈への抵抗感から始まった物語は、久美子の変化によって、ただ青春の輝きを眺めるだけの物語へと変わってしまう。眩しいほどに美しい青春のページが捲られるたびに、自分の凡庸さを突きつけられ、眩んだ視界を美しさとして享受する他にない、そんな物語が始まる。

 だから私は大吉山での一幕が嫌いだ。好きだけど、嫌いだ。



 しかし、上で述べたような、「特別」を一歩引いたところから眺めるしかない構図はある意味では現実の移し鏡であると捉えることもできる。そして、そんな現実に痛めつけられる感覚は決して心地の良いものではないけれど、一方で感傷マゾ的な心地よさを感じる自分もいる。現実とは隔てられたものとして、現実からの逃避先として定義づけられることの多い二次元によって、現実の構図が引き出され、生々しく痛めつけられる。「響けユーフォニアム」で味わうことのできる、そんなエグ味の強い感覚が私は好きだ。だから、その際たる例である、大吉山の一幕は嫌いだけど、好きだ。




 愛憎入り混じるって言葉は真実なのだと思う。嫌悪感を一つの作品に引き出された時点でそれはもう好きなのだと思う。どんなことでも、好きだからこそ嫌いだし、嫌いだって思えるくらい打ち込んでるから好きなのだと思う。

 そして、それに基づいて考えると、自分の中の大吉山での一幕で生じる、自らの好きと嫌いの感情を綴り続けた本論は一種の「愛の告白」であると言えるのかもしれない。




 今更そんな痛々しさを纏っても、特別にはなれないと、分かっていながら

大吉山の夜景

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