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「ひ・よみ」…第4回3.記紀神話の見直し

3.記紀神話の見直し

3-1道教の影響

記紀の成立した時代は、古事記(712年)、日本書紀(720年)と遣唐使の盛んだった時代です。

この「唐」は他の王朝と異なり、非常に道教を優遇していました。

「道教」と「老荘の道家思想」を混同されている場合があるので、一言説明しておきます
「道教」は「儒教」と同じく、民間から発生したいろいろな信仰を含んだ「宗教」としての名称で、「道家」「儒家」はその根幹をなす思想的方面を受け持つ部分、とお考え下さい。
とはいえ、「本当に老荘思想と関係があるのかしら?」というほど、いろいろと雑多なものを含みます。
横浜の中華街に「道観(道教の施設)」があるので、お近くの方は一度行ってみることをお勧めします。
私には、「老子は仙人だった」、という説から、「不老不死になりたい」といった神仙思想程度のつながりしか感じられません。

絶頂期の唐の皇帝の諡号(しごう:おくりな)は「玄宗(※)」、儒教国家であれば「諡号法」により、名君には順に「文武昭穆…(ぶん・ぶ・しょう・ぼく…)」の文字が使われるべきところです。

※ のちに楊貴妃のおかげで政治を放り出してしまいますが、それまでは開元の治(唐の第2代太宗の貞観の治と並び称される)と呼ばれる中国史上、最も安定した時代のひとつでした。

また「鳩摩羅什(くらまじゅう)」と共に二大訳聖とされる「玄奘(げんじょう、西遊記の三蔵法師のモデル)」も、道教の根本概念である「玄牝(げんぴん)の門」から「玄」の字をとっています。
道教の隆盛によって、道教の「無の思想」が仏教に影響を与え、本来別物である「空」と「無」が混同されるようになってしまいました。
鳩摩羅什と玄奘が同じ経典を漢訳しているものの相違は、道教の影響の有無と考えられます。
日本の仏教はみな道教の影響を受けている、ということです。

「神道」という言葉も、この時代にできています。道教の影響は無いのでしょうか。祈祷、まじない、御札、御守り、おみくじ、みな道教由来です。

「記紀」編纂の大きな理由には「天武朝」の正当性と、大陸に対する説明の意図が考えられます。

「記紀」の資料となったといわれている「帝紀・旧辞」は、推古天皇が編纂させたものと考えられます。でなければ、推古「古(いにしえ)を推す」という諡(おくりな)が意味をなさ無くなります。「天武朝」はこれらから意図的に必要な部分を抽出し、記紀完成後に廃棄させたと考えています。

「ハツクニシラススメラミコト」が神武天皇と崇神天皇の名として存在するのは、「帝紀」の記述が神武天皇から始まり、「旧辞」の記述が崇神天皇から始まっていた、という可能性も考えられると思います。

「記紀」は「古事記」の巻頭の「天地の初発の時」が淮南子(えなんじ)からとられているなど、かなり中国の古典の影響がうかがわれています。

以上の点から「天岩戸」も「玄牝の門」との関係性が予想されます。
「玄」は「くろ・くらい・くらくなる」、「牝」は「女性(メス牛とされていますが最高概念でなので)」、「戸」は「片開きの扉」、「門」は「両開きの扉」となります。

「玄牝の門」の概念を物語にしたものが、「天岩戸」神話ということになります。

3-2「神武東遷」はなかった?

ここで中国の古代王朝を考えてみると、周、晋、秦、漢はみな西から東に遷都しているのです(前漢・後漢も中国では西漢・東漢といいます)。
これは最新の馬種、馬具、馬術といった軍事技術が西の中央アジアから入って来るための圧力と言われています。
それを知った日本で、「私たちの朝廷も西からやった来ました。」と外国人に説明するために作った話だと思います。

国生みの話になりますが、淡路島を阿波路島、「阿波(徳島)への足掛かりの島」という意味だと考えるとすると、最初から現在の近畿方面から阿波へ行くことを想定していた、ということになります。
大和政権は日向(宮崎)の高千穂ではなく、徳島からやってきたのかも知れません。

河内に巨大古墳が集中しているのも、対外的に造営したものと思われます。
これは仁徳天皇陵・履中天皇陵の長辺が、海岸から平行になっていることからも想像できます。
朝廷が、巨大古墳を造営できる権力を持っているのは、国内の人間であれば十分承知しているはずなので、これも外国人に印象づけるためのものです。
海岸に到着した人々から、最も大きく見えるようになっているのです。
前方後円墳という形の考案も、遠望して同等の大きさに見える円墳・方墳を
造営することに比べて、工事量を大幅に減らすことができる、というのも関係ありそうです。

このように古代から大和朝廷は、想像以上に外国を意識していたようです。

のちに、この中国の「唐」の不穏な空気を察知して、遣唐使を廃止したのは菅原道真でした。

3-3岩戸神話

岩戸開き・岩戸閉めの考えが、「ひふみのふで」では、「おおもと」とかなり異なっています。

「おおもと」は今度は二回目といっています。「記紀」の岩戸神話については何も語っていません。
「ひふみのふで」では前回(記紀)はだましたものとして価値を認めていません。
しかも、岩戸閉めが五回としています。

「…大神はまだ岩戸の中にましますのぞ、ダマシタ岩戸からはダマシタ神がお出ましぞと知らせてあろう。…」(五十黙示録 碧玉の巻 第十帖)

これは、どういうことかというと、「アマテラスが岩戸に隠れた原因を何も解決していない。」ということです。

本来ならば、スサノオの乱暴狼藉のために岩戸に隠れたのであれば、「スサノオを連れてきて謝罪させ、納得したうえでアマテラスにお出ましを願う。」というのが筋だからです。

それを外で騒ぎ立て、「アマテラスがいぶかしんで覗いたところを引っ張り出す。」というのは大変失礼な行為で、スサノオの乱暴狼藉と何ら変わりがありません。
策略と力ずくで皇位を手に入れた、天武朝の性格を肯定しているものと思われます。

もちろんアマテラスはそんなこと、とうにお見通しだった訳です。
だから、岩戸からは「ダマシタ」神が現れたのです。
「ダマシタ神」というのは、「偽」ではなく、「代理」の神をいいます。
でなければ、世の中はガタガタになってしまいますから。

大体、真っ暗になったというのに、計画を立てて行動できるのであれば、しばらくそのままでも良いのでないかと思います。

「…岩戸は五回閉められてゐるのざぞ、那岐(なぎ)、那美(なみ)の尊の時、天照大神の時、神武天皇の時、仏来た時と、大切なのは須佐之男神様に罪着せし時、その五度の岩戸閉めであるから此の度の岩戸開きはなかなかに大そうと申すのぞ。…」(日の出の巻 第一帖)

「五度の岩戸閉め」については、上記のようにありますが、岩戸は一箇所なのか複数なのかも、わかりません。
しかも、この五度というのは「五行説」の影響をうかがうことができます。

それは「木火土金水」が、
 木…那岐、那美の時の「桃」
 火…天照大神の「日」
 土…須佐之男の「土」
 金…神武天皇の時の「金鵄」
 水…仏とのかかわりのみ不明(仏教で水は閼伽(アカ))
と、かなり良く符合することから推定できます。

このことから「五度」というのは、「おおもと」を意識した「五行説」による脚色と思われます。
「五度」説は採用しない方が良いでしょう。

ただ、アマテラスのときに開けた岩戸は「天岩戸」ではなく、「千引の岩戸」だったようです。

#ひふみのふで #記紀神話 #道教 #神武東遷 #天岩戸



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