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「ひ・よみ」…第9回5-3-2矛盾の解消

5-3-2矛盾の解消

事実誤認か矛盾か、区別しにくいところもあるのですが
ウメやサクラに関しても、以下の点が挙げられます。

「外国は悪」のようなことが多く出てきますが、
ウメは中国原産なのにずいぶん持ち上げています。
サクラも「冬に咲く桜はありえない」ようにいくつか出てきますが、
ジュウガツザクラという、冬に咲く種類が存在しています。

私は、ウメもサクラも大好きです。

ここからは、矛盾と思えるものを抽出して、
どちらに従えば良いのか考えてみます。

・怒り

×
「…保持(うけもち)の神様ひどくお怒りぞ、……保持の神様 御怒りなされてゐるから早やう心入れかへてよ、この神様お怒りになれば、臣民 日干しになるぞ。…」(富士の巻 第十八帖)

「…保持(うけもち)の神様お怒りざから、…」(富士の巻 第二十帖)

「神に怒りはないのであるぞ、天変地異を神の怒りと取違ひ致してはならん。……怒りはないのであるぞ、若(も)し怒りが出た時は、神の座から外れて了ふのであるぞ。…」(五十黙示録 扶桑の巻 第八帖)

ウケモチノカミは怒っても良いのでしょうか。
だから人間の容姿ではなく、狐の姿の稲荷と同一視されるのでしょうか。
仏教のダキニテンとも同一視されています。
ただし、四国由来の稲荷はお狸様です。

他の宗教の神とは、異なっているでしょうから、
「神に怒りはないのであるぞ」という方が、正しいと思います。

・存在

×
「…ばくち、しょうぎは無く致すぞ…」(天つ巻 第二十帖)

「今の法律 此の方嫌ひぢゃ、嫌ひのもの無くするぞ。…」(松の巻 第十一帖)

「…人力屋、酒屋、料理屋、芸妓(げいこ)屋、娼妓(しょうぎ)、無く致すぞ、世つぶす基(もと)ざぞ、菓子、饅頭も要らんぞ、煙草もくせぞ、…」(空の巻 第十三帖)

「…今あるもの、今生きてゐるものは、たとへ極悪ざと見えても、それは許されてゐるのであるから、あるのであるぞ。他を排すでないぞ。」(黒鉄の巻 第三十一帖)

「…何も彼も太神の許し給えるものなるが故に存在する。…」(補巻 月光の巻 第十二帖)

存在を否定するものと、肯定するもの。
肯定するものの方が説得力があります。

「しょうぎ」に「将棋」の字をあてないで、無理やり「娼妓」としているのは、岡本氏のいた鳩森八幡の隣に、将棋会館があるせいでしょう。
以前は、囲碁、将棋、双六など、勝負事はすべて「賭け事」となっていました。

・礼拝

×
「何神様とハッキリ目標つけて拝めよ。只ぼんやり神様と云っただけではならん。大神は一柱であるが、あらわれの神は無限であるぞ。根本の、太 ヒツキ大神さまと念じ、その時その所に応じて、特に何々の神様とお願ひ申せよ。…」(夏の巻 第四帖)

「神々の数は限りないのであるが、一柱づつ御名を称(タタ)へてゐては限りないぞ。大日月 (オオヒツキ)の大神と称へまつれ。総ての神々様を称へまつることであるぞ。…」(黄金の巻 第五十八帖)

どちらが正しいのか迷うところですが、
無限にあるすべての神の名を「何々の神様」とお願いすることは、
現実には不可能であることは明らかです。
もし神名が分かるという人物に伺いを立てるということになれば、
その人物のもとに宗教が発生してしまいます。

・霊


「…霊人と語るのは危ないぞ。気つけくれよ。人は人と語れよ。」(黄金の巻 第十八帖)

「…霊媒通じてこの世に呼びかける霊の九分九分九厘は邪霊であるぞ。…」(黄金の巻 第五十帖)

「霊界にすむものは多くの場合、自分の住む霊界以外のことは知らない。その霊界が総ての霊界であるかの如く思ふものであるぞ。同じ平面上につながる霊界のことは大体見当つくのであるなれど、段階が異なってくると判らなくなるのであるぞ。他の霊界は霊自身のもつ感覚の対象とならないからである。人民界のことをよく知ってゐる霊は、人民界を去って間もない霊か、地上世界に長く住んでゐた動物霊か、人民に憑依してゐた霊であるぞ。…」(五十黙示録 竜音の巻 第九帖)

「…つまらぬ霊界とのゑにしが残ってゐることぞ。…」(五十黙示録 第05巻 極めの巻 第五帖)

霊・霊人・霊界を否定している部分がこれだけあるのですが、
ある「巻」では、ほぼ霊の話ばかりのものもあります。
敬遠するべきです。

・地獄

地獄についても同様で、あれほど頻出するものを、
否定している部分がこれだけあります。


「…無き地獄、人が生むぞ。…」(黄金の巻 第三十帖)

「…誰でも死んでから地獄へ行かん。地獄は無いのであるから行けん道理ぢゃなあ。…」(黄金の巻 第九十四帖)

「…地獄ないこと合点か。…」(白銀の巻 第一帖)

「…地獄無いと申してあらうがな。このこと間違はんやうに、地獄地獄の言葉、やめて下されよ。言葉からモノ生むのぞ。…」(白銀の巻 第六帖)

「…地獄ないと申してあろう。…」(秋の巻 第十二帖)

地獄がなければ天国(極楽)も無く、同様に善悪もありません。
これらは外国の宗教によってもたらされた概念だからです。

地獄の存在を信じる人は、地獄の使いに取りつかれてしまいます。
天国(極楽)へ行きたいと思っている人々も、
地獄の反対としての天国(極楽)を考えているので、
つまり、「天国に行きたい」イコール「地獄に行きたくない」、
なので、地獄から逃れることはできません。

黄泉の国は地獄ではありません。

・善悪

原始信仰の段階では、善悪は区別していなかったそうです。
神の中に善も悪もあったのです。
善いことは多く、悪いことは少なく、と祈っていれば良かったのです。

初期の宗教によって善神と悪神に分けられたものの、
依然、双方とも信仰の対象であり続けました。
すべてのものには、善い面と悪い面があると考えれば当然のことです。

太陽にも月にも地球にも、悪はあります。

太陽の「コロナ質量放出」に地球が飲み込まれれば、
地球上のすべての生物は終わります。
たまたま地球の方向に放出されていないだけです。
このために「宇宙天気予報」というものまであります。

月に関しても、距離が近くなって大きく見えるのを、
「スーパームーン(※)」などと、もてはやしていますが、
距離が近くなるということは、
それだけ月の引力の影響が大きくなる、ということです。
距離が一割近くなれば、引力は約二割大きくなります。
それだけ潮汐力が大きくなり、地殻変動も激しくなるということです。

※もともと「スーパームーン」という言葉も、占星術の用語で、科学的には定義できない、と国立天文台のホームページにも説明されています。

地球にも善悪があるということも当然理解できるでしょう。

あくまでも、人間にとっての話です。

反対に毛嫌いされている放射性物質も、
利用する側の問題であって、
良い面もたくさんあります。

地球は歴史上、二度、全球凍結しています。
地球全体が南極のように氷の下になっていた、ということです。

こうなると太陽の光を反射してしまうので、
太陽光では地球の温度は上がりません。

この氷を溶かしてくれたのは、放射性物質の放射線による熱でした。
放射性物質がなければ、地球上に生命は存在していないのです。

以上のように、すべてのものは善悪二面性を備えているものです。

何某かの信仰が、
宗教として、権力者の庇護を受けるようになると、
権力者は悪を好まず、善のみを肯定し、
悪を否定しだしたのです。
これが現在の宗教の誕生で、
権力者に対する媚び諂いの始まりと同時です。

そしてこれが二元論の始まりでもあります。
善悪、自他、日月を対立して考えるようになっていったのです。

自分の中に善も悪もあり、相手にも善悪がある。
お互いに悪を減らしていきましょう、ということであれば、
自も他も同じということになり、共存が可能です。

それが自分側は絶対的に善で、敵側は絶対的に悪である、
と双方が考えれば歩み寄りの余地は無くなります。

どちらかが消えてなくなるまで、争いが続くことになります。

宗教対立の根が深い原因です。


「…そなたのもつ悪いくせを直して下されよ、それが御神業ぢゃ。神々様も自分のくせを直すために御苦労なさってゐるぞ、そのために生長する。昨日の自分であってはならんぞ。六十の手習でとまってはならん、死ぬまで、死んでも手習ぢゃ。お互におろがめよ、おがむと総てが自分となる、…」(五十黙示録 極めの巻 十二帖)

これが私が宗教を否定する理由です。
運も不運も、幸も不幸も、奇跡も、どうでもよいことです。

歴史的には、新しい考えのようですが、
「一霊四魂」の「荒魂」が「悪」=「悪いくせ」の部分を表現しているものと思われます。

「勇猛果敢」な部分と説明されていますが、
では、なぜ、
「荒(草地の中に髪を伸ばした死体が横たわっている)」
という意味の文字をあてたのでしょうか。

あまりにも、悪い印象の文字なのです。

・洗脳

×
「悪く云はれるとめぐり取って貰へるぞ、…」(青葉の巻 第十七帖)

「神の道に進むために罵られることは人民の喜びぞ。その喜び越えて神の喜びに入れば罵られることないぞ。…」(黄金の巻  第三十二帖)

「悪く云はれるのが結構ぞ。何と云はれても びくつくやうな仕組してないぞ。…」(黄金の巻  第六十九帖)

「…そなたは御神業ぢゃと申して、他に迷惑かけてゐるでないか。そこから改めねばならん。鼻つまみの御神業はないのであるぞ。…」(補巻 月光の巻 第三十七帖)

「…あれなら日津久の民ぞと世間で云ふ様な行ひせねばならんぞ。…」(松の巻 第十一帖)

今まで、どれだけの人がこの言葉に、引っかかってきたことか。

前三者は、典型的な宗教的洗脳用語です。
この言葉が出てきたら警戒しなければいけません。

「智や学を否定」して、外からの情報を遮断させて、
神と称するもの(実際には神ではありません)の、
いいなりにさせる手法です。

それに対して後者の論は、常識的なものであることが、お分かりになるかと思います。

・奇跡


「…霊覚者や行者の中には奇跡的なことや非常識な行動をする者がよくあるぞ、一般の人民はそれにだまかされることがよくあるぞ、何れも下級霊のしわざであるぞ、正神には奇跡はない、奇跡ないことが大きな奇跡であるぞ、奇跡するものは亡びる。…」(五十黙示録 竜音の巻 第十八帖)

奇跡・開運・金運などの声に振り回されませんように。

●総括

「ひふみのふで」の中の「おおもと」由来でない、前例のない新しい考え、
またそれは往々にして宗教以前の片鱗を窺わせるものでもあり、
注目される点です。
これが本当の神の言葉だと考えます。

「ひふみのふで」の中にも「ふで」を否定する部分があります。


「…神示は要らぬのがまことの臣民ぞ、神それぞれに宿りたら神示要らぬのざぞ、それが神世の姿ぞ。…」(地つ巻 第二十九帖)

「…神示はいらんのぢゃ、ふではカスぢゃぞ。…」(黄金の巻 第二十四帖)

「…フデに囚はれるから判らん。フデすてて、仕事に神示(フデ)生かして生活せよ。生活がフデぢゃ。…」(黒鉄の巻 第十二帖)

最終的には、
「ひかり教会」も「至恩郷」も、「ふで」が必要のなくなる日を、
目標としていたはずなのですが。

七十年以上も、同じことの繰り返しで、何の進展もないことを、誰もおかしいと思わない。

この状況を、打開しないといけません。

「ひふみのふで」の本旨が理解できれば、「ふで」は要らなくなります。
いちいち、本文を参照する必要もない訳です。


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