1991年から92年にかけて東京の郊外で起こったこと、そしてその後の沼について(5)

からのつづきです。最初から読むならへ。

1993年になり、バンドで動くことが増えるにつれてカセットテープのダビングや工作のようなことをする時間もどんどん少なくなっていった。MTRでの録音にもだんだん慣れ、8トラックの上位機種を買ったりもして、極初期のわけもわからず叩きつけるように録っていたときとは少しずつ違う作業になった。近所の開拓を簡単に諦めた私の動きは、そこから急速に、「普通のバンド活動」のサイズに収まっていく。

バンドの練習場所も西新宿だったし、ライブをするのもほぼ都内(=23区内)。あっちはライブハウスもバンドも星の数ほどあって、かなり細かく棲み分けがされていたから「一定の趣味の人たちが集まってるんだ村」にお邪魔しまーすという感覚。他がどうだったかはわからないけれど、私がお邪魔した村はだいたい一緒にライブに出ているバンドの傾向が偏っていたので、常に場違い感があった。とはいえ、私は「一見すると簡単に分類できそうだけど、よく考えるとどこに入れればいいのかわからない」っていう感じのものがとても好きだし、どこか特定の村に定住する気がもともとなかったから、むしろ場違い感がなくなって来たらまずいよね! くらいに思っていたところもある。パステルズのレコードの話じゃなくて、パステルズから受け取った「感じ」のことを誰かと話してみたいなという思いは常にあったけれど、オオニシさんとの新聞交換のようなことはもう起こらなかった。

この年の終わり頃、新しくできたPUSHBIKEというレーベルのオムニバスCDに、私のひとり宅録ドゥーワップ歌謡みたいな録音物(「La-vi La-vi pt.3」)が収録された。その発売記念イベントかなにかに出たとき、恵比寿のギルティっていうライブハウスだったと思うのだけれど、それまで2回くらいしか会ったことのなかったサニーデイサービスの曽我部くんに「サニチャー! 良かった!(オムニバス収録曲の中で)あれが一番良かった!!!」と突然言われて、それがあまり知らない人から面と向かって録音物についてのリアクションを受け取った初めての体験だったので、そうか、洋楽の形式をきちんとなぞるやり方とは最初の動機からして全然ちがっていても何か感じ取ってくれる人がいるんだな、って、ちょっと勇気が出た。そのときは曽我部くんが泥酔していて会話にならなかったから、今度はシラフの時に何が「良かった!」のか聞いてみたいな、なんて思っていたけれど、しばらくしたらサニーデイは別のレーベルからリリースするようになったから、もう話す機会もなくなってしまった。

ここから先は

1,387字
この記事のみ ¥ 100

この文を読んで、これ書いた人に資金提供したいなーと思った方は、「サポートをする」を押すと送金できるそうなのでよろしくお願いします。手数料を引いた85.5%の額(100円送っていただくと約85円)がこちらに届きます。あと振込手数料も多少取られますが。