労働判例を読む#173

「狩野ジャパン事件」長崎地大村支R1.9.26判決(労判1217.56)
(2020.7.30初掲載)

 この事案は、ロングライフ麺の製造工場の作業員Xが、数年間にわたり、ほぼ毎月、月90時間以上、多い月には月150時間以上(7か月)勤務したことから、退職後、未払残業代や、長時間勤務による苦痛に対する損害賠償を求めて争った事案です。会社Yは、固定残業代の定めがある、などと主張しましたが、裁判所は固定残業代の定めの効力を否定しました。

1.固定残業代

 固定残業代については、基礎賃金部分と割増賃金部分の区別が明確であることが要件である、と言われることもありますが、それがどこまで明確でなければならないか、について裁判例が分かれており、ルールが揺れ動いている状況です。
 この中で、この判決は明確性に関する基準(どこまで明確でなければならないのか)という、表面的な論点よりも、より根本的な問題を議論しています。

(1) 何のために明確区分性が必要か
 まず、基本給とは別に支給される職務手当が固定残業代の原資とされている構造のため、固定残業代を基本給から区別できるかどうか、という問題が生じない、と認定しています。論点を整理しているのです。
 次に、職務手当に含まれるものを見ると、固定残業代の他に、能力の対価も混在している、と認定しています。そのうえで、固定残業代と認められる(=職務手当の支払いをもって労基法37条の定める割増賃金を支払ったとすることができる)ためには、「固定残業代部分と能力に対する対価部分とが明確に区分されていることが求められる」としています。
 この、明確区分、という条件は、どのような場合に必要となるのでしょうか。
 たしかに、固定残業代が問題になる全ての場合に、明確区分性が必要、と評価することが可能かもしれません。
 けれども、ここでの議論は、割増賃金の計算の基礎賃金に含まれるのか、それとも逆に、この基礎賃金には含まれず、さらに、割増賃金に充当されるのか、という問題です。会社の立場から見ると、固定賃金と思っていた部分が、そうでないと評価されると、残業代を払わなければならなくなるだけでなく、その部分が基礎賃金の方に含まれることになってしまい、その0.25倍の割増賃金(休日の場合は0.35倍、深夜勤務の場合は、これらに加えてさらに0.25倍)を追加して支払うことになりますので、単に残業代を支払うこと以上のインパクトがあります。
 このように、基礎賃金側に分類されるか、固定残業代側に分類されるかの影響が極めて大きいことから、従業員の給与や勤務条件に大きな影響を与えます。すなわち、契約の内容として、意味が全く異なってしまう条件について曖昧なままでは、合意があったと認めるわけにはいかないので、この境界線を従業員側が理解し、納得しなければ、そもそも契約の成立が認められない、と評価できます。

(2) 明確性が問題になりにくい事案
 そうすると、本事案と異なり、例えば職務手当が全て固定残業代に相当する(能力への対価は別の手当てで考慮される、など)場合には、境界の曖昧さの問題は生じません。
 したがって、このような場合には、明確区分の問題は生じない、と考えることも可能と思われるのです。

(3) 何が明確性の基準になるのか
 では、職務手当の中に、固定残業代部分と能力に対応する部分が混在するように、割増賃金部分と基礎賃金部分の境界性が問題になる場合、何が境界線になるでしょうか?
 これまでの裁判例やそれに対する議論を見ていると、固定残業代の「金額」が示されるだけで十分か、それともそれが何「時間」分に相当するのかを示さなければならないのか、が対立する見解として位置づけられています。そして、この違いは、従業員が残業代を請求できるかどうか、という「従業員保護」の要素から説明されるようです。例えば、「時間」を明記しなければならない、という見解は、自分が何時間以上残業すると割増賃金がもらえるのかがわかることが、従業員保護になる、という趣旨の説明をしています。
 けれども本判決は、従業員に対して「職務手当のうち固定残業代部分の『金額』が具体的に明示」されたかどうか、と一方で表現しつつ、他方で「職務手当のうち固定残業代部分が、『何時間分の割増賃金』に該当するかが明示」されたかどうか、と両者が選択的に必要とされているような表現がされています(労判64頁右側(3)の冒頭部分の2つの段落)。つまり、「金額」か「時間」のいずれかで区分されれば良い、というように読める表現がされており、このいずれが境界線として優れているのか、という比較検討はされていないのです。
 この点は、明確区分性が必要とされる理由を、労働契約の成否の問題と位置付けると、理解しやすいでしょう。
 すなわち、会社と従業員の合意が成立したといえる程度に、契約内容が特定していたといえるために必要な境界線について、事案に応じて基準が異なってくることは、会社ごとの給与体制が異なる以上、当然だからです。
 このように見れば、本判決では、一方で「金額」、他方で「時間」を基準としていて一貫しないように見えても、実はそうではなく、そのいずれが「境界線」となるのかは事案によって異なる、という理解が可能なのです。

2.長時間勤務の損害

 この事案では、さらに、Xが退職前の2年間のうち、2か月を除き全て月100時間以上の時間外労働を行っていて、残りの2か月も月90時間以上、逆に、前記のうち6か月は月150時間以上、などの長時間の勤務を行っていたことを主な理由として、Yによる安全配慮義務違反がある、と認定されました。
 時間外労働時間は、メンタルが事業上の障害かどうかを判断する際(労災や民事上の安全配慮義務違反の責任を判断する際)、重要な要素とされます。厚労省のHPで誰でも閲覧できる「精神障害の労災認定」の4頁でも、長時間労働があった場合の労災認定について、具体的な認定基準が示されています。
 本事案での時間外労働時間は、他にどのようなストレスがかかったのか、具体的にはどのような「出来事」が降りかかったのか、に影響を受けるものの、十分、労災に該当するストレスと評価されうるレベルの長時間労働です。もし、Xにストレスを原因とする精神疾患が発症していたら、労災と認定され、会社の安全配慮義務違反の責任も認められるレベルです。
 幸い、Xがかかる疾病を発症せずに乗り切ることができたからと言って、Yが責任を負わない、ということになれば、会社は従業員が病気にならない程度にこき使えばよい、ということにもなりかねませんので、Yに損害賠償責任を認めた判断は合理的でしょう。

3.実務上のポイント

 本事案のYは、固定残業代部分の説明が二転三転する等、給与制度の設計が十分こなれていなかったのかもしれません。また、就業規則の36協定の効力も疑わしいようです。
 労働判例で紹介される会社には、労務管理の体制がしっかりしていない会社をときどき見かけます。そのような会社の場合には、一度トラブルが発生すると、関連する複数の問題が一度に噴出する傾向があるようです。本事案のYでは、労働時間管理、固定残業代制度、長時間残業、という問題が明らかになりましたが、さらに、労基法上の諸論点がたくさん明らかになるような場合です。
 労務管理は、どうしても手間のかかる作業で、人件費や社労士への支払いなどのコストがかかりますが、会社組織を安定させ、従業員に仕事で力を発揮してもらうための、経営の「維持費」です。必要なコストは惜しまずにかけましょう。

労働判例_2020_04_15_#1217

※ JILA・社労士の研究会(東京、大阪)で、毎月1回、労働判例を読み込んでいます。

※ この連載が、書籍になりました!しかも、『労働判例』の出版元から!


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