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なくなったブローチと父の思い出

父が亡くなった時、
私は、大きなショックをうけた。

あと2年、と言われてから約3年…。ホスピスを選んだ父は気丈だった。

最期のあの日、初めて気弱さを見せ、黙って私に身体をさすらせた。

「大丈夫、私もすぐに行くから」
そう言ったあの時の気持ちは今はない。
ごめんね。
すぐ行かなくて。

父の死から立ち直る為の期間は、2〜3年だっただろうか?

今日はその父の産まれた日。

180センチ近い長身の父は、酔うと予科練の話をした。
自ら玉となり、死ぬ為の飛行訓練を受けた10代の頃の話だ。

父が飛ぶ前に戦争は終わった。

信じてきたものが一瞬で覆され、死ぬ覚悟をした教育は間違いだったと知らされ、
生きなければならなかった父は教職についた。

頑固で怖かった。
けれどユーモアもあって…おどけたり、たまに見せる笑顔が好きだった。
まだヒラ教員の時代から退職間際の校長になっても、よく生徒達に慕われていた。
怖かったのに、ね(笑)

滅多にない、子どもである私と同じ小学校に勤務した一年のある日…。

昼休みに鉄棒へと走る私は、父に呼び止められた。

白いセーターの胸元に、そっと七宝焼きの、小学一年生にはお世辞にも似合うとは言えないお花のブローチをつけてくれた。

学校に売りに来た業者から買ったものなのか?
なぜ、それを姉や母ではなく、私につけてくれたのか?
今となっては聞く術もないが、
嬉しくてしばらくはどんな服にも、どこに行くにもつけていたような気がする…。

いつの間にか、母の化粧台の上の桐の箱に収まっているのをみた記憶を最後に…

今は私の手元にはない。

首を後ろに折って見上げなくてはならない大きな父だった。

親の子ども時代や青春時代の話を聞く機会はあまりない。
あっても幼すぎて理解出来ない。
今なら聞けるのに…。

人は死ぬと、仏となる。
どんな生き様も 肯定され、良かった事をより多く思い出し、あまりよろしくなかった思い出も、美化されるか風化する。

そして風になって、時折頬をさする。

怒っていない。
哀しんでもいない。
きっと穏やか、だよね。

そう自分に都合よく解釈する。

白いセーターに、ブローチをつけ鉄棒へと走っていく私も
白い靄の中に消えた。


昨日タイでは母の日だった。
私は父を思った。
7回忌には呼ばれなかった…。

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