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中学時代の恩師と妬み嫉みの権化だった僕

TK工房少年は、まぁ捻くれていた

今はどうかと言われると、自分でもどうかわからないが、当時は妬み嫉みの権化のような人間だった


中学は地元の公立に通ったが、学校の定期テストすら30〜40点を叩き出していた


中二の夏頃、一念発起して勉強始めてからは、順調に成績も伸び


学年で1〜2位を争う位置まで上り詰め、高校受験も進学校と呼ばれるところにチャレンジ出来るところまできた

第一志望は奈良県にある、当時新進気鋭のN学園

レベルでいうと当時で偏差値70だったと記憶する


大阪の私立は全て同じ受験日なので、1校専願でしか選べないが、N学園は奈良県なので受験日が違い、併願として受けることが出来た

奈良県の方が受験日が早い

うちの中学から同校を受けたのは、私ともう一人、中国から転校生としてやってきたP君

彼は全く日本語話せない状態から、2年強で日常会話に関してはネイティブレベルにまでなっていた

しかし、やはり国語のテストとなると難しく、到底受験レベルには到達していなかった

ただN学園の受験に再試では、彼は外国人枠(帰国子女枠?)で、国語が免除され、受験科目は英語と数学のみだった(と記憶する)


捻くれ少年だった私はその待遇を聞いて「ズルい。おかしい」とひたすら愚痴を言っていた


そして、N学園の受験が終わり、大阪の私学受験を目前に控えている頃に結果が通知された


P君は合格、私は不合格だった



その時の私の怨嗟は凄いものだった

所構わず愚痴を吐き

あいつは2教科だから受かった

俺も同じ条件なら受かってる

おかしい

むかつく

俺の方が5教科総合点高いのに、数学と英語だけの奴に負けるのはおかしい

あいつのせいで俺は落ちた

なんなら、本人にも面と向かって言ったような気がする

まぁ、それは醜い、負け犬の恨み節だった

当時の誰もが、気分を悪くしたに違いない


担任のI先生にも「外国から来て日本語もわからない状況でスタートしてる時点で、お前とは条件違うねん。圧倒的に不利な状況や。英語も数学も日本語で解いてるんや。
あいつは与えられた条件の中で、見事に結果を出したんや。落ちたのは悔しいかもしらんけど、他の受験生も同じや。受かったやつも落ちたやつも同じ条件で受けてんねん。」

と諭されたのを覚えている

それでも、捻くれていた自分には受け入れがたかった

そんな被害妄想甚だしい、最悪の気分で迎えた大阪の私学受験

「滑っても別にええわ。そもそも第一志望じゃないし」

なんていう、戦う前から負けた時の言い訳をするようなクソださい精神状態のまま受験校に向かった


20分ほど電車に揺られて最寄駅に着き、改札を抜けると、見覚えのある人間が立っていることに気づく


「先生、ここで何してるんですか?」


担任のI先生がニヤっと笑いながら立っていたのだ


「いや、どんな顔して来るんか見たろと思てな」

「え?」

「なんか落ち込んでたみたいやけど、今日は切り替えていつも通りの実力出したら絶対受かるから。どんと構えて受けておいで。じゃあな」


と言って、そのまま改札に入っていった。


予想だにしなかったことに、呆然とその背中を見つめていたが


とにかく最高に嬉しかったのと心強かったのを覚えている


試験を終えて家に帰るなり母親に伝えた


私「今日、会場の最寄り駅に着いたらI先生が、待っててくれててん!アドバイスくれてめっちゃ嬉しかったわ!」

母「え?ほんまに?、、、あんた、それ学校で言うたらあかんで」

私「え?なんで?」

母「今日はクラスの子もみんな試験やねんで」

私「あ、、、」

そう、30人いるクラスの中で、私学を受ける生徒はみんな今日受けている

つまり、先生は自分にだけ会いに来てくれていたということにその時やっと気づいた

しかもあの時間にあそこにいるということは、学校の始業時間にも間に合っていない

母「お前がN学園落ちてから、落ち込んで捻くれてるのを心配して、そんな特別な対応してくれたんやで。ホンマに感謝せなあかんで」



その後、無事に合格通知が届いた



あれから20年


明日、そのI先生と地元でサシ飲みすることになった

嬉しさと緊張が入り混じる

サポートいただいたお金は、こんな僕を育ててくれた母ちゃんに還元したいと思います。