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福澤諭吉×TK工房 仮想対談⑪クソリプたれる奴らに物申す

TK「それじゃあ、今日は、現代日本人に巣食う、一番厄介な現象について見ていきましょか」


驕りと勇敢さ、粗野と率直、頑固と真面目さ、お調子者と機敏さはペアになっているものであって、どれもみな場面と、程度と、方向性によって、欠点ともなるし、美点にもなるんや。

ただ一つ、そもそもの働きにおいて完全に欠点一色で、どんな場面でもどんな方向性でも、欠点中の欠点といえるのは怨望や。怨望は働き方が陰険で、進んで何かをやることもない。他人の様子をみて自分に不平をいだき、自分のことを反省もせずに他人に多くを求める。そして、その不平を解消して満足する方法は自分に得になることじゃなく、他人に害を与えることにあんねん。

たとえば、他人の幸福と自分の不幸を比較して、自分に不足があったら、それを改善して満足するていう方法をとらんと、逆に他人を陥れて、それによって自分と他人を同じ状態にしようとすんねん。「論語」に「これを憎んではその死を欲す」という言葉があるねんけど、まさにこのことや。こんなやつの不平を満足させようとしたら、世間一般の幸福が減るだけで、何の得にもならへんねん。
貧窮・困窮が怨望の原因やとしたら、世の中の貧乏人はみんな不平を訴えて、金持ちは恨みの的になって、人間社会は一日ももたへんはずやけど、実際はそうはなってへんねん。いかに貧乏で社会的に地位が低くても、その原因を知って、それが自分の責任であることを理解したら、決して、みだりに他人を恨んだりせえへんもんやねん。その証拠はいちいち挙げるにおよばんやろ。今日の世界で、貧富の差、社会的地位の差があるのに、人間社会がちゃんと動いてるのを見たら、わかるやん。だから、金持ちや社会的地位の高さは怨望の的にはならんし、貧乏や社会的地位の低さも不平の原因じゃないて言えるねん。


TK「この感情は、現代日本人にも跋扈する恐ろしい感情・考え方です」

先生「やっぱりまだあるか。なかなかなくなるもんじゃないとは思ってたけどな」

TK「おそらく、現代は先生の時代に比べて、周りがよく見えるようになったのも原因なんです」

先生「どういうことや?」

TK「例えば、同じ東京と言えど、自分が知ってる世界って物理的に範囲が決まってるでしょ?向い三軒両隣みたいな。実際に関わる人だったり、まぁ、町の有名人くらいじゃないとその個人の生活なんて見えてこない」

先生「まぁ、そうやわな」

TK「それが僕らの時代では、もう日本中の一個人がどんな生活してるのかも見えるんです。日本だけじゃない、世界中ですわ。すると自分の生活が簡単に他人と比較できてまうんです。」

先生「すごい時代やな。外国の情報を簡単に入手できるなんて、うらやましいけどな」

TK「もちろんその状況をポジティブにとらえて、学問するやつはどんどん学問するんです。でも、そうじゃない、こういう怨望の精神をもった輩は、周りと自分を比べて、少しでも気に食わないことがあったら、我先にと足を引っ張る。とことん誹謗中傷して、他人を不幸に陥れて満足するんですわ」

先生「おいおい、めっちゃうらやましい環境になってるのに、本質は、ちっとも変っとらんやないか!なんでそんなことになんねん?」

TK「いや、もうわかんないす。たぶん学問が足りないんだと思います」

先生「ほんでまた『学問しぃや』の宣伝かい?」

TK「あかんのか」


次回に続く
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