無題

人になりたい獣がいた

二本の足で立ってみたい
己の視界を広げてみたい
火の、何もかもを焼き尽くす恐ろしさだけではなく、
身体にも、食物にも、命の熱を宿す温かさ
恐怖に満ちた夜の闇を切り裂く
光の素晴らしさを知りたい
手を使って、なにかを成してみたい
友人と手を繋いでみたい
連れ添う番と、触れ合ってみたい
自分の子を抱き上げて、頭を撫でてやりたい
時には、自身のもたげる頭の重さに、発達した脳をもつ苦痛に沈み込んでみたい

獣はいつも人になることに恋い焦がれていた

ある日、見知らぬ人間が死んでいるのを見つけた
死体はまだ蝿もたかっていないしそれほど傷んではいないようだった
獣はその冷たい体から、己の牙で少しずつ少しずつ
皮を剥いだ
一枚になった毛の生えてない生皮を
獣は器用な指のない前足で
何とか苦労して被ってみた

勿論人間にはなれなかった

獣が、人間の皮を被っただけで人間になれる道理がこの世のどこにも存在しないからでは無い

普通の獣は、人間になりたいなど、そんなことは微塵も思わない
ただ獣として、あるがままの生を全うするだけだ
なんの意味もなくとも、死体の皮を剥いでまで、少しでも憧れのものに近づきたいと思うのは、紛れもなく人間であった
それは人間だけがする、何かを欲す行為であった

既に人間であるものが、
また新たに人間になれるわけはないのである

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