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不協和音(14)

一緒にいることを楽しむなら友達として付き合うことを続ければいい。城にとって音楽は、音楽があってこそ繋がりを意識できるものであればいい。そのための集まりがバンドという形であり、音楽を犠牲にしてまで人としての付き合いを重視することは音楽に失礼じゃないか。

演奏力がないくせにそういう矜持だけは一人前の城は、そうしてバンドの腰掛けを重ねていくことになった。もちろん本人に腰掛けのつもりはない。一度一度が本気で必死である。そういう柔軟性の欠如、趣味と理想の乖離が、城の融通のきかなさだった。

周りを見てもそこまで思い詰めてバンドをやっている人間はいなかったように思う。ある程度近い場所に住み、ある程度近い年齢で似たような音楽を好きであれば集まって爆音を鳴らす。それはスポーツと同じかもしれない。プロとしてやっていくならアマチュアクラブから出て本気のクラブに進み、意識の高い仲間と切磋琢磨して上を目指す。

遡れば学生の部活だって本気でやろうと思えば進学先も選ぶ基準にもなり、将来的にはそれで飯を食っていくことから果ては指導者として後進の育成なんて人生もあるだろう。

しかもスポーツには分かりやすい目標がある。地区のトップとか全国とか、規模が大きくなれば世界やランキングまで目指すところには誰でもわかる順位がある。じゃあ音楽はどうなんだろう。プロになって誰もが知ってるアーティストになる、世界規模の売上を誇る、紅白に出る、確かにどれも分かりやすい評価を得られると思う。マンガやドラマの世界ならフェスのヘッドライナーを務める場面がその頂点になる絵も描ける。

でも音楽は違うと、城は思うのだ。

スポーツのように自らの身体を使うことに変わりはない。他者の前で演奏して感動を共有することも可能だ。ただ、その後に得られるものが違う。疲労や諦めや後悔じゃない。演奏をすることで自らの身体に確実に蓄えられ、実体としての質量はなくても確かに残るその残響感はむしろ文学に近くいつまでも残るものだ。

時にそれは記憶となって何度でも反芻され、その人の内面に確実な何かを残す。
少なくとも自分にとっては音楽とはそういうものだし、賞を取るとか上を目指すわけじゃない。私のため。

自分の満足のために私は楽器を弾き、今確かにその瞬間を誰かと分かち合ったという共感を得たいのだと城は言葉にできないまでも心のどこかで感じていた。そのための妥協をしていられるほど、人生は軽くない。

奇しくも音楽との関わりは他にも続いた。イベント企画の職についていた頃の繋がりで音響関係の業者と再会する機会があり、新しくスタジオを作ることになったからちょっと働いてみてくれないかというものだった。

専門職ではなくスタジオの仕事をしながらイベント企画の知識も多少は活かすことができる。城はこれも何かのタイミングだと思い、その誘いをありがたく受けることにした。

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