不寛容な自由

ここ最近酷いなと思うニュースが本当に多い。別にコメンテーターや識者じゃなくても「それはないんじゃないか」と考えることが日常茶飯事だ。

年齢のせいなのかそういうニュースに過敏に反応し易くなったのか分からないけど、今思うことを今の自分の感想で記録しておきたい。

先日終了したあいちトリエンナーレの「表現の不自由展・その後」がそれだ。

開催から物議を醸しているのはTwitterで知った。一部デマもあったけど確認するうちに慰安婦像と昭和天皇の肖像画のことを知った。正直なところ慰安婦像については語るほどの知見もない。ただ朝日新聞が煽動して「慰安婦」という形が定着してしまった経緯は後から調べた。

それよりもやはり昭和天皇の肖像画だ。

右とか左とか特定の思想に思い入れがあるわけではない。戦中や戦後の世代でもないし両親ともに普通の社会人だ。ただテレビで放送しないことを不思議に思いネットで調べて見たら、言葉を失った。

なぜテレビで放送しないかという点についても多くの語り手がいたからここでは省くが、どんな理由があれいち市井の人間として見た感想は「これを芸術と呼ぶのか?」という吐き気にも似た嫌悪感だった。

これが誰の肖像画であれ問題ではない。マンガでも風刺画でもない実在した一人の人間の肖像画なのだ。これはもう正気の沙汰ではないと思った。

やたら自由の侵害だとか言う人はいま一度表現の自由について「内在的制約」を勉強するといい。

「内在的制約とは、第一には人権の行使は他人の生命や健康を害するような態様や方法によるものでないこと、第二には人権の行使は他人の人間としての尊厳を傷つけるものであってはならないことを意味する」

日本語が分かればそう難しい条文でもない。「他人の人間としての尊厳を傷つけるものであってはならない」のだ。これは本来であれば条文を省みる必要もない、人としての常識だろう。

少なくとも私はそう考えた。しかしネットやテレビで見る限りどちらかと言えばその考え方は少数派なようだ。皆「自由」を声高に叫ぶばかりで、他人を貶める行為を非とする私のような考えは持ち得ないらしい。

再開後の展示も終わり、報道は多少収まった感に見える。「表現の自由」を議論する機会になった、なんてしたり顔で述べる報道機関もある。

果たしてそうだろうか。

私にはこれが一抹の騒動に思えない。今を生きる人の倫理観や先の時代を生きた人への尊厳、こういう目に見えない普遍的に大切な何かが、静かにこぼれ落ちた気がするのだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?