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超次元的実戦川柳講座 その7「シュレーバー控訴院長の鑑賞」

 
(いつものように前書き。以下の文章は2022年4月9日、伊那市文化芸術講座「現代川柳を学ぼう」で講義した内容を基にしています)

(一部有料です。あまりしつこく言ってもなんですが、定額マガジンに所収していますので、そちらのほうがいろいろ読めてお得です。得、という概念が最近よくわからなくなってきた。というのはスルーしてください)


 こんにちは。この「超次元的実戦川柳講座」(長いなタイトル。今更だけど)もそろそろ一区切りになりました。次回で1クール終了、そしてまた次のクールをはじめる予定です。
 で、今回はまとめに向けて、ひとつステップアップを。
 そもそも「現代川柳」とはどんなものがあるでしょうか。今日はさまざまな句を12句、読んでみたいと思います。何度も言っていますが、「読む」ことと「作る」ことはパラレルなので、この数ヶ月で、読む力も、かなりあがったのではないでしょうか。これまでの講座で覚えた技法を駆使して読むことで、新たな発見があるかもしれません。
 当然ながら、この「読み」から「作る」ことへの応用はとても効くのです。読むことは作ることです。ですから今回の「読み」には皆さんも参加してほしいので、何かちょっとでも気づいたことがあったら、コメントなりなんなりで言ってみてくださいね。それでは。「川柳の意味」「川柳の作者」「川柳の表現」の三部構造になっています。あ、ちなみに掲出句はその作家さんの代表句というわけでは、必ずしも無いです。あらためてそれでは。

1.「川柳の意味」


  都合よく転校生は蟻まみれ
   小池正博(1954〜)

 これが575になっていることは一目瞭然かと思います。本当に笑ってしまうほど575なんですね。でも笑い事ではなくシリアスな問題として(笑いがこのうえなくシリアスであるとして)、「定型」がもたらすのは何か? という提示なわけです。575のなかで、どれだけ発想を飛ばせるか。それは575という型式に、どこまで噛み合っていたか。また飛ばした発想をいかに一句のなかに納めるか。(それも定型と噛み合っていたか、という問いと同根です)。また「都合よく」「転校生は」「蟻まみれ」という意味の過剰なすべての言葉。それぞれの言葉のベクトル、について考えてみてもよいと思います。このベクトルがいかにして統御されているか、については人各々が答えを見つけられるのではないでしょうか。


  妖精は酢豚に似ている絶対似ている
   石田柊馬(1941〜)

 
 この句については何度かとりあげましたね。だいぶこの句については理解が深まったかと思います。付け加えるとしたら、「AはB」という等式をみずから脱構築しているんですが、その時に「似ている」というイコールに限りなく近く、果てしなく遠い述語を選んだこともひとつのポイントとしてあるでしょう。「酢豚である」じゃないんですね。あくまで「似ている」と執拗に言っているからこその、「問答体」の自己解体です。

 
    天啓はやましい 烈しい雨にあう
   清水かおり(1960〜)

  
 この句に関しては、二物衝撃、を思い出してもらえれば。「天啓はやましい」と「烈しい雨にあう」の衝撃はもちろんですが、この句はさらに入れ子として「天啓/やましい」の衝突もあるのですね。衝撃したものがさらに衝撃している。その観点から見た「二物衝撃」の構造を読み取っていただければ。 

 
  はろー、きてぃ。約束の地にまるく降り立つ
   柳本々々(1982〜)

  
 この句の場合も、ひとつひとつの言葉の意味が過剰です。過剰なんだけれど、ひとつのルールの下で制御されている。これ、言葉それぞれのベクトルと、その配置の仕方を分析してみると、自分が作る上でも役に立つと思いますよ。 


2.「川柳の作者」


  妻一度盗られ自転車二度盗らる
   渡辺隆夫(1937〜2017)

 あんまりこの講座ではやれなかったのですが、「作中主体」の問題です。この句を語っているのは何か? という。この句の場合、妻を盗られた「何か」(「誰か」であってもかまいません)と「自転車を盗られた何か」が微妙にずれています。それは「自転車二度盗らる」というある視点、すごく冷静になっているメタフィクションの視点が唐突に顔をだす、そのずれだと思います。そこで作中主体が、ひいては作品自体が不意にずれてくるわけですね。


  干からびた君が好きだよ連れて行く
   竹井紫乙(1970〜)

 この句に関しては、「君」というものを措定することによって、自分、が表現されています。この「君」に関する情報量——干からびた、好きだよ、連れて行く——の過剰さが、逆に「君」を正体不明なものにしていて、それが「自分」を映す鏡のようなものだとしたら、この「自分」というものの不可解性を、いかに表現するか、というよい見本になっている気がします。


  おはようございます ※個人の感想です
   兵頭全郎(1969〜)

 ここにおいても問題となるのは作中主体です。※マークで、一瞬、どきり、としません? それは既存の構文が崩れた時の怖さなんだけれど。どういう風に崩れるかというと、作中の主体が、ある一定の文法に従っていながら、それを同じ作中でみずから壊してくるとも言えます。「おはようございます」って言ってる主体を、「※個人の感想です」って言う主体が皮膜を破って出てくるわけです。ある意味ホラーですね。このときのどきり、とした感覚がこの句の肝になっているわけです。

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