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超次元的実戦川柳講座 その3「世界のホカホカ」


(例によって註。以下の文章は2022年1月22日、伊那市芸術文化講座「現代川柳を学ぼう」の講義録をもとに再編集したものです。あくまで「実戦」にこだわる川柳講座であることには変わりありません)

(記事の一部が有料です。単体より、マガジンご購入の方がおとくです。これは単なる宣伝ではありません。では何か、と言うと、まあ読んでみてください)


 こんにちはー。今日は、みなさんからご要望のあった「川合大祐の句」の解説をする回です。(註:受講生の方々から、そういうご要望があったのです)。言いたいことも言えないこんな世の中ですが、ポイズン! というネタに走るのは安易なので慎みます。しかし、いつ講座が中止になっておかしくない情勢、一日一日を大切に勉強してゆきましょう。うわ嘘くさいことを言いました。(註:この講座の以後、蔓延防止措置により、会場が使えなくなり、しばらく延期となりました。うわあ)
 実際には、この疫病を前にして、「川柳はどういう役割があるのか」ってことを考えなきゃいけない、と思われるかも知れません。この「考えなきゃいけない」ってとこ、覚えておいてくださいね。で、この川柳の役割については答えは出ません。八〇年代、大江健三郎とかあの界隈が「アジア・アフリカの餓えた子供の前で小説は何ができるのか」とかマジで——少なくとも本人だけにはマジで——悩んでいましたが、今ここで起きていることの受苦者って、「アジア・アフリカの餓えた子供」っていう都合の良い存在では無いんですね。今ここ。あなたとわたし。すべてに等しくのしかかってくるプレッシャーなわけです。はっきりと断言しても良いですが、これは世界大戦です。
 それは「自分」と「世界」がダイレクトに接続されてしまう状態を指して「世界/大戦」と呼ぶわけですが。
 じゃあそれに川柳はどう対応してくか、ってことなんですが、「諷刺」をせよってのは、何か違う気がするんです。「諷刺」っていうのは、ある意味とても麻酔薬で。「こんなに鋭いこと言って現代の矛盾を撃ってるんですよ、ワタクシ」的な陶酔、言ってしまえば独りよがりな飲み屋談義——まあ、飲み屋さんに行くのも大変な世の中になっているわけですが——に見えて、周りからすると、なんかちょっとやだな、って思われるわけです。このちよっとやだな、って感覚は実はとても大事で。その不快感がどこから出てくるのか? あるいは、その不快感はどこに向かうのか? ということを考えたほうがいいと思います。ひとつの答えとして、どこから? という点には、「自分を棚に上げやがって」という生理的な反応があります。どこに向かうか? という点には、結局いまある形態の「権力」を延命させることになる、と答えられると思います。権力論に関してはやはり膨大な論議になるので、あえてしません。ただ言えることは、「社会のガス抜き」の役割すら、今の川柳は果たしていないことです。ある事件が起こる。それに関した川柳が発表される。その川柳が気に食わない・あるいはそういう川柳をつくる奴が気に入らないと叩かれる。こうしたプロセスを含めて、辛うじて「ガス抜き」たることを許されているのが現実です。そのプロセスさえ、起こることが「稀」な奇跡に近いのですが。
 そもそもね、社会のための川柳、ってのが何かおかしい、っていう論議はもう昭和初期にはあって、鶴彬——「手と足をもいだ丸太にしてかへし」が異常に有名になっていて、川柳作家としての資質が忘れ去られがちな人ですね。自らを「プロ川柳」と言ってました。プロはプロフェッショナル・レスリングのプロじゃなくてプロレタリアね、言うまでもなく(笑)。プロレタリア川柳。あ、一応リンク貼っておきますね(→鶴彬)——なんかはもう川柳で社会を革命してやるぜ、なんて鼻息荒かったんだけど、彼に対して木村半文銭あたり——この人、Wikiにさえないんだけど、『はじめまして現代川柳』にも載っているので参照してください。川柳史上すごく重要な人です——は「それじゃ思想第一、川柳第二だ。芸術はそれでいいのか」みたいな、噛み合っているようでどこかずれた、しかし白熱した論戦を繰り広げてます。昭和十年代の話ですね。その十年後に世界がどんなことになったか、その時「川柳」は何をしたのか、今となっては見ることができます。過去のこととして。
 例によって脱線しました。ただ、「今」を書くこと、それも「自分」と「世界」がダイレクトに結びついてしまう事物を書くこと、これは、非常に難しいです。ひとつの鍵として、さっき言った「『川柳はどういう役割があるのか』ってことを考えなきゃいけない」って「考えなきゃいけない」って思ってしまう、あるいは思わされてしまう圧力、そこにポイントがあると言えます。なんでそう思うのか。なんでそう思わされるのか。その疑問を追求することで、ここではじめて、「自分」と「世界」の関わり方が視覚化されるとも言えます。きょうの序論はかなり脱線したようですが、これ、「川合大祐」の川柳を解説する上で結構大事な点だったりします。
 というところで川合句の解説に移るのですが、もともとこの川柳業界では「自句自解」は忌避されるんですね。「この句にはどういう意味があるんですかっ?」「いやあ、それは自句自解で野暮だからしませんよ」みたいな。粋な通人を気どれるので覚えておきましょう(笑)。それは単に自分の句作に理論ができていないだけじゃねえかって気もしますが。
 であの、私はいちおう理論があって書いているので——ここ笑いどこかどうかは各自判断してください——自句自解、します。
 
  無 ホカホカねえさん以外すべて虚無  川合大祐
  
 これは完全に、「理詰め」で出来上がった句です。

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