下道と高速

下道と高速

 「雪が降ったら火の元注意」という小学生が絵を描いたらしいポスターの横に「毎週あなたを待ってます。継続に裏切られるな。」と二行に言葉を積まれたスポーツクラブのビラが貼られている。歩いていても気づかれない場合もあるだろうに道路の隅に建てつけられ自然に風景と馴染んでいる雨風にさらされた白い立札には上原自治会掲示板と書かれており文字は所々が削れていた。このポスターやビラがいつ掲載されたもので、いつまでここに飾られているのか。掲示板が見てきた幾通りにも枝分かれしている人々の考えなどわからないように、無数に通りかかるうちの一人である私がこの掲示板はどれだけ陽を浴びて何度雨に打たれのかは知る由もない。
 掲示板の前はこの近辺で一番の主要道路へと入り込んでいくための細く枝分かれした道の前にあり、考えを持つと言われる人が乗る考えを持たぬであろう車という機械がそれなりに数多く通っているんだろうな、と複雑な神経と血脈の巡りが生み出した答えとしては不十分なほどの単純な解を出した。そこから一つ割り出せることは車は速いということで、遅くとも時速三,四〇キロで走っていて私の過ごす時間と車の過ごす時間には大きな差異がある。これは回路と呼ぶべき複雑な道があるのかはわからない私の頭の中で海を見るよりまっすぐに浮き出てきた気づきだった。私がだいたい駅まで徒歩何分で、だから分速何キロでそうなると時速はいくらになるんだろうかと割り出してみようと試みるけれども、考えるのをやめて硬めの革で上質そうに見えるベージュのトートバッグの中身から液晶を取り出して調べると時速五キロほどらしい。じゃあ街中で走っている車は私よりも八倍速くて、考えを持たぬその機械は私よりも八倍もの時間を速く生きている事になるんだろうか。いや車は乗られていないで止まっている時間がだいぶ長いしそう考えると速くないのかも。でも人間も寝てる時は止まっているみたいなものか、私は六時間睡眠だから車は四八時間睡眠ぐらい必要、なるほど確かにそれぐらい休足が必要なのかもしれない。と合点が行った頃、待ち合わせしている駅の近くの立ち食い蕎麦屋の前に着いた。
 しゃもじで固められた安定食の大盛りご飯くらいの密度がありそうな重い雲の隙間から陽がさしていくらか震えが落ち着いたけれど、目の前を通り過ぎる唐揚げみたいに隆々と盛りあがる肩と胸にびっしりと張り付くグレーの半袖を着てサングラスをかけたいかにも私が観光客ですという顔をした男性と、上品な質感のレザージャケットの内側に餃子の皮くらい薄くてコツコツと歩く度に不規則に揺れる膝下ぐらいのワンピース姿の女性がいて、純粋に身体の構造が違うのかこの季節にそれで耐えられる人がどこにいるんだ、と疑問に感じるぐらいに私は凍えていた。そんな私はというと、黒いスキニーに深緑のタートルネックのニットを被りパッチワークで装飾された黒地のダウンジャケットを羽織っていて、色味がなくて可愛いとは思われないかもしれないが、シンプルで上品さを兼ね添えたアイテムとシルバーのアクセサリーで華やかさも演出でき、当たり障りがなく子供らしさを取り除いてくれるお気に入りの服で身を包んでいる。ただしあまりに寒いから中にはヒートテックのタイツとTシャツを着ていて、いざ脱いだら芸人の罰ゲームみたいなタイツ姿を見せびらかしてしまい行為に及ぶまでのムードを壊してしまうだろうなと冷たい空気に掠れた笑いを漏らした。
 そこからは厭に時間が長く感じた。液晶の小さい時刻を何度眺めても五分経つまでにどれだけの間華やかな想像とこれから訪れる現実とを乖離させないよう彼の顔を吟味したかわからない。私の知っている彼の顔はたった三枚でそのうちの二つは自分で撮影したものなのか長い前髪で俯き加減に顔を隠してなんとなく雰囲気を保っているもので、もう一つは大自然の中で何がそんなに楽しかったのか手を目いっぱいあげて笑っている写真で、これはどれだけ寄っても解像度の問題なのか顔の造形までは判断がつかない。なんとなく清潔感はなさそうで荒々しい行為を及んでくれるのだろうと身体のうちが開封後のカイロみたいにゆっくりと暖かくなっていくのを感じながら、これでただ見た目を気にする余裕がないから髪も髭も伸ばしっぱなしで上手くワイルドかアンニュイみたいなキーワードで誤魔化しているだけの男かもしれないと、自分の理想と不安を行き来する。数字だったり難しい言葉で綴られた本を読んでいる時にはなかなか進まない思考という迷路も、こんな題材では目まぐるしく高速にあっちへこっちへ考えがめぐり、なんとなく下道と高速道の違いもこんな感じなのかなと納得した。高速道路の出口に差し掛かるようにゆっくりと頭の中を落ち着けていると彼らしい姿の男性が目に入った。どう表現すれば彼という一個体を示すことができるのか、私の知っている3枚の写真からどのような時間を過ごしてきたのか、とりあえず彼に対して言えることは髭もなく艶のある肌で、髪の毛も短くジェルで塗り固められ清潔感のある男だった。きっと相手も同じようなことを思っているのだろう、自分の知っているはずの顔がそこにはないから、手を挙げて声をかけたいけれどポケットに入れられた手のやり場がわからずに戸惑っているようだった。一枚の写真しか彼が知っている私の情報はなく、写真からはすでに2年が経っていて流行り廃りは化粧も髪型にも影響が出るし女にとっての2年は風貌を変えるには十分すぎる時間だった。男は下道を走り、女は高速を走る。ブラブラと辺りを見回すネイビーの品の良いコートを来た男が私に声をかけるまでタクシーが2台ほど通り過ぎていった。

 再び掲示板の前を通り過ぎ、ねえこれってどういうことだと思う、と尋ねた私に何これ意味わかんないね、と答えるまでの時間はただただ早く過ぎ去っていけと願っていたからなのか、思慮も思考もなく彼の話に耳を傾けているようで何も頭の中になかったからか、記憶には残らないありふれたもの過ぎてすっぽりと抜けているから短いようにも思えて多分とても長ったるしい時間だった。昼間から会おうという彼の提案に賛同してしまったことを悔いても過去には戻れない。心地よい音色を流すカフェで甘いものを食べて食休みに近くの公園まで歩いて、冷えるベンチに座って自販機の暖かい紅茶を飲んだ後に、小洒落たイタリアンでワインを飲んでいい具合にお互いが酔っ払うまでに七時間近く経っていた。どれも私のよく知る場所だけれどそんなそぶりは見せずあそこ行ってみたいだとかカップルのようなデートを演出していた私の頭は空っぽだった。彼は行く先々で煙草を吸っていて、携帯灰皿に吸い殻を入れていた。
 雪降ってたら火事なんて起きないでしょ普通。それに継続は裏切らないだったらわかるけどどういうことだよ。と答えた彼は自分の信じる側面からしか物事を判断することができないんだろうなと酔いさましになった。雪が降って乾燥した日にこそ火事は怖いし、継続という二文字に踊らされて惰性でジムに通っても意味がない、自分を虐めないと真に成長はできないことを表しているだろうに。これまでの彼の話は冗長でありふれた仕事の自慢ばかりで、初心者のテニスのラリーみたいにテンポが悪かった。テンポの悪さは話だけでなく家に入れてから行為に及ぶまでもそうで何かとバツが悪い男だなという思考を裏に、表では無理やりテンポを転調させてベッドに入れ込んだ。ヒートテックは気がつかれないように素早くニットと一緒に脱ぎ去った。度々私の顔に触れる指先に、彼の吸っていたタバコの苦い香りが染み付いていて煙草を吸う彼の姿を思い出した。時間の経過と共に染み付いてきたその香りは鼻から臓の内部にまで届いて柔らかい火を灯すようだった。
 それまでの長い時間の経過とは裏腹に、空に浮かぶ雲ぐらいの速さで事を終えた。ああ、さっきまで見てた雲がもうあっちの方にいる。灯された火がふっと息で吹き消されてしまう一瞬。それは気の持ちようで変わっていく時間の長さではなく、現実的で誰にも平等に流れているはずの時間という概念に即した速さだった。広大すぎる海の水平線の先へまっすぐに視点を定めるように、目的へ向けて考えもなく考える人間に操られ時速百キロで進む車のように、なんの意図も思考もなくただ速かった。テンポの悪さから極限までの転調に私はついていけないのに、その緩急がなぜか気持ちよくて満足してしまう。それはきっと動物の本来もつ生殖という本能に対して、彼が非常に目的に対して速くまっすぐであるからではないかと合点がいく。火は消されるから灯す事ができる。初めて、彼が個性的な人にみえたような気がする。

 満足する私とは別に彼は仕切りにごめんと言っていた。挿れたままで。もう終わってしまった事を振り返るのは男の特性なのだろうか、通りでバックで駐車するのが上手いわけだ。私を含めてバックの駐車が上手い女はそうそういない。さっさと前に進んで欲しい。及んだ後の手際の悪さと弁明に彼の横で深いため息をついてしまう。私の態度に彼はまた弱々しく謝罪をする。謝る度に火の消えたロウソクは何度も何度も折れていく。機嫌をとろうと撫でるように私の顔に触れる指先から、煙草の香りはほとんどなくなっていた。

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